平静とロマン

平成生まれの大正浪漫18歳

明け方から送信

こんにちは、おはようございます、こんばんは。ただいまの時刻は午前5時6分、明け方です。
試験勉強をしていて、ひと段落したので仮眠を取ろうとしたのですがカフェインの影響でどうにも眠れなくて、仕方なく買ったまま置いておいた坂元裕二さんの『初恋と不倫』という往復書簡形式の本を手に取ったらどうにもこうにもエモーショナルになってしまって、どうしようもなくなってしまったのでこうして文字を書いています。わたし、往復書簡に弱いんですよね。手紙と手紙、メールとメールの間に現実では何が起こっていたのかは行間からしか読み取れない、現実から一歩離れた虚構らしい感じが好きなんだと思います。

わたしのすごく嫌いなアニメがあるんですけど、キャラクターとか、演出とか、そういうのは大好きで、だからこそ納得のいかない話の進め方をして、ひどく理不尽な終わり方をしたのが許せなくて大嫌いなんですが、そのアニメにね、こういう口上があるんです。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。」
何者にもなれない、ってどういうことかよくわからないでしょう。でも、すごくわかるんです。わたしはずっとずっと自分の輪郭がわからないままぼんやり生きていて、きっとこのまま、「自分」を手に入れて、名前が残るような「あの人」になることがないまま、無名の誰かとしてぼんやり死んでしまうんだろうなって実感があって。
それが、「何者にもなれない」ってことなんだろうなって。

ああ、何を書きたいかよくわからなくなってきちゃいました。
けど、けど、わたしは何者にもなれないかもしれないけど、なら、無名の人のままでいいから、せめてわたしがいたんだって痕跡をどこかに残したいなって。100年たったらいま周りにいる人はみんな死んでるし、1000年たったら化石になっちゃうんですけど。それでもいいから、残せたらなって思う。

お芝居って見たことないんですけど、不思議と好きな作家はみんな演劇畑出身の人で。どうしてだろうって考えて、出た結論が、きっとわたしは「今」に必死でしがみついていて、飾り気のない、それでもうつくしい「今」が好きで好きでしょうがないんだろうなってことで。だから、たぶん生の人間が動いて話して生の人間に見せるお芝居の臨場感がわかっている人たちの書く生きていることのスピード感と鮮やかさが好きなんだろうなって。

だから、きっとそういうのがいいんだろうなって思います。とりあえず今はそんな感じで。脚本家になりたいとか、そういう宣言はしません。好きです、それだけ。

壊れた鍵穴

季節は息をしているだけでも確実に、容赦なく過ぎていく。満開の桜の下で、春風に吹かれながら記念撮影をしたばかりだと思っていたのに、寒々しかった並木はあっという間に緑に茂って、アスファルトの道路の先にはかげろうが揺らぐ時期になってしまった。

映画を観るひまもなくなってしまったくらい毎日まいにち忙しいけれど、わたしはなんとか生活に適応して、友達を作って、げらげら笑ったり歯を食いしばって涙をこらえたりしながら生きている。きちんと、生きていけている。

前を向いて、ぐいぐい大股で歩みを進めていくしかないような日々だけれど、ときどき立ち止まってまわりを見渡してみる。
13歳のわたしの馬鹿な話も、17歳のわたしの死にそうな話も聞いてくれた友人たちはわたし以外はだいたい同じ大学に通っているのだけれど、彼女たちもあたらしい環境でそれぞれにちがう道を勢いよく進んでいる。

ときどき会って話をすると、やっぱり彼女たちはわたしのことをよく知っていて、わたしも彼女たちのことをよく知っているから、ずっとずっと一緒にいたような、離れていた時間なんてないような気がする。
ああわたしたち大きくなってしまったねぇ、でもやっぱり一緒にいると楽しいねぇなんて言いながら近況報告をして、げらげら笑って。そんな時間はあっという間に終わってしまうけれど、きらきらしていて、爪くらいの大きさのちいさなころころした宝石みたいだと思う。

いまではもうひとつひとつをはっきり思い出すことができないようなちいさな宝石をたくさんたくさん一緒に集めたから、彼女たちと過ごす時間はあんなにたいせつな愛おしい時間になっているんじゃないだろうか。宝石箱をながめているみたいな。

時間は巻き戻せないし、鮮やかに目の前に存在していた世界は刻一刻と奥行きのない過去に姿を変えていく。
わたしだって、わかっている。
だから、彼女たちと宝石を確かめあえる時間はたいせつなのだ。

けれど、宝石は、そこにたしかにあったことを覚えていても、どんなにわたしが愛おしく感じていても、もう触れられないこともある。宝石箱の鍵は、わたし一人では開けられないからだ。

わたしは、たぶん、たいせつな友達の過去に閉じこめられてしまった。わたしはまだまだいっしょにいろんなことをしたかったけれど。
そういうこともある。わかっている。
だから、さようならを言わせてほしい。もしもこれを見ていたら、わたしの勘違いだったら、そう教えてほしい。正解だったら、それでいいから。

ねえ、おぼえていますか。
いっしょにいろんな話をして、いろんなところに行って、楽しいことも、人には言えないような危ないことも、たくさんあったよね。
きみにとってはいろあせた、たとえ思い出したくない何かになってしまったとしても、わたしにはずっとたいせつにしておきたい宝物です。
だから、ありがとうね。さようなら。

ひさしぶりに文章を書いたら、よくわからなくなってしまったな。おやすみなさい。

魔法使いになれるとき

ため息をつくと幸せが逃げてしまうと言うから、ため息はティーカップに注いだ紅茶を冷ます息と一緒に湯気に溶かしてしまうことにして、今日はたのしい話をしましょう。

そうね、たとえばお菓子のおはなし。

わたしは甘いものがとてもとても好きで、からいものと、すっぱいものと、苦いものと甘いものとを並べられたらおそらく甘いものを手にとる。
すっぱいものも苦いものも嫌いではなくて、からいものもからすぎなければ好ましいけれど、どれか一つだけ選んでいいよ、と言われたらそのときはきっと甘いものを選ぶ。

最近よく考えているのは、お砂糖と小麦粉をたっぷり使った洋菓子のこと。
雪のような白いアイシングの上にあざやかなピスタチオがぱらぱら乗ったウィークエンドシトロンとか(わたしの好物)、こまかーい装飾が表面にほどこされたアイシングクッキーとか、洋酒が効いていて口に運ぶたびにフルーツがこぼれるようなパウンドケーキとか、そんな感じ。

お菓子は食べるのも好きだけれど、つくっている時間のほうが好きかもしれない。
できあがるお菓子のこととか、食べてくれるひとのことだけを考えていられるから。手を動かしながら次の工程を考えて準備をしていたら、いつも気にしているような余計なことはぜんぶ考えなくてすむし、ほかのことで悩む余裕なんてない。

型に注いだり、オーブンペーパーのうえに絞ったりした生地を予熱の済んだ熱いオーブンに入れたら、そわそわしてリビングとキッチンを行ったりきたりしながらできあがりを待つ。
小麦の焼ける甘い香りがふわりと漂ってくるころになると待ち遠しくて、10分くらいずっとオーブンの中を眺めてしまうこともある。

わたしは料理はあまり得意ではないけれど、お菓子作りはとても好きだ。レシピの手順と分量をしっかり守って、使うオーブンのくせをちゃんと把握していればレシピが間違っていない限りおいしいお菓子がたしかにできあがる。

ああ、お菓子を作りたくなってきた。

そらのひかりは扉

ひとりで家の近くの映画館でレイトショーを観て(と言っても終演時間はそこまで遅くなかったけど)、帰りがけにコンビニに寄って頼まれた牛乳、飲みたかったメッツコーラ、おみやげの筒にはいったポテトチップスを買った。

昼間はずいぶん暑かったのに、夜は裏地をつけたスプリングコートを羽織ってもまだすこし寒いのね、なんて思いながら歩いて帰った。ずいぶん夜がふけている気がしたけれど、友達とお夕飯を食べてから帰るときと同じくらいの時間で、きっと部活をはじめたら練習終わりはもっと遅くなる。
いまなら、お酒を買えるかも。悪いわたしがささやいた。おりこうさんなわたしはコンビニにはもう寄ってしまったし、万が一ばれたらお店にずいぶんな迷惑がかかるのを知っているから、悪い誘いに立ち止まることなくすたすたと歩き続けた。

マンションのエンドランスを抜けて、部屋へ向かって外廊下を進む。
静かな廊下を歩きながら、ふっと外を眺めたら、おおきな3つの光が点滅しながらこちらの方角へ飛んでくるのが見えた。

UFO?
そんなわけないか。
わたしはいつだって珍しいものがすきで、怪奇現象を心のどこかで待ちわびている。だから、ちょっとふしぎなものに出会ったらすぐにいつかどこかで読んだような物語に変換しようとする。
けれど、SFはサイエンスフィクションの略称だってことも知っているし、フィクションは現実にはありえないことが書かれるからフィクションとして成立するということも知っている。もちろん、飛行機の光は思っているより明るく、大きく見えることもあるってことだって。世の中のほとんどは理屈で説明できることばかりだってことも、たぶん知っている。
21世紀は科学の時代で、こうしてとつぜん思い立って書いた文章をカジュアルに全世界に公開できるのも、たとえ1万キロ離れていたってコンマ数秒くらいのラグだけで好きなひとの声を聞けるのもそんな時代の科学の進歩のおかげだ。

でも、でも。
わたしは、数学がわからない。算数だってちょっと危ないし、化学や物理は極端なミクロの話もマクロの話も、聞いていたらだんだん怖くなって、じぶんの視界の枠がぐらつくような、重力がわたしを地面に引きつけてくれなくなってしまったような、ふわふわした気持ち悪さに包まれてしまう。

きれいなことばを並べるくらいしか、インクが染みついた紙の束に飛び込んでたぷたぷと泳ぐくらいしか能がないのなら、すこしくらい偉大な科学のことを忘れて、空を滑るおおきな光をUFOだと信じてもいいんじゃないかな。

わたしの世界は思ったよりずっと狭くて、ときどき息がつまりそうになってしまうから、真っ黒な空の白い光を見つめながら、だれも見たことのない、会ったことのないふしぎな人たちに思いをはせて、おおきく深呼吸をしてもいいんじゃないかな。

今夜もよく眠れますように。

ひとすじの

新生活がはじまって14日ほど経った。
平気で2,3日家の外に一歩も出なかったような生活から一転、週6日ペースで夜は外食、帰りははやくて21時、みたいな全力疾走で坂を走りおりるような余裕も安定感もない日々をすごしている。


正直、ともだちはまだいない。
あいさつするような顔見知りとか、たくさんの人たちの中でひとりで心細いときに一緒にいるような知人はできた。LINEの友だちだって40人くらいは増えたと思う。
けれど、ひとりの時間を減らしてでも一緒にいたいような、ふとなにかを目にしたときに「ああ、あの子に伝えなくちゃ」なんて思い出すような、そういう誰かは現れない。
なんとなく、屈託なく笑う明るい子たちには、世界への根ざし方が違いすぎる気がして、気おくれしてしまう。だから、きっと自分から壁を作っているのだと思う。

わたしは本を読むこととか考えごとをすることが好きで、ひとりの時間の使い方に困ることはないし、ひとりでいると比較的楽しく過ごすことができる(とすくなくともわたし自身は思っている)。
よく知らない子と四六時中一緒にいて、話題もことばもおそるおそる選んでぎこちない会話をするよりは、ひとりでいることを選びたい。
けれど、同じ文脈を有するともだちといる時間はひとりの時間よりずっと視野が広くて刺激的で、たのしいものだということも知っている。
わたしにとって"誰か"と過ごすことはつまらないものでもあり、たのしいことでもあるから、積極的にひとに関わろうとしないのにさみしがりな一匹狼ができあがってしまう。


だれかがわたしに好意を持ってくれていてもわたし自身がその人に興味を持てないと関わらないようなともだちの選別を、覚えていないようなちいさいころからしてきたらしく、おそらくいまさらどうすれば変われるというものでもない。でも、なんとなくもやもやしつづけている。

お風呂あがりに濡れた髪を乾かしながら黒髪のすきまにのぞく金のメッシュを見て、ああ、ひとすじの光をわたしは探しているんだなあとふと思った。

ぶ厚い雲をやぶって差し込む、まばゆくてまっすぐ見られないような、手を伸ばさざるをえないようなきらめき。
待っているだけではなにも変わらないし、しっかり顔を上に向けて探さないときっと見つからないけれど、自分がくるくる走っていてもどうにもならないこともたぶんあるから。

ここで呼吸をしていること

母が旅行券を当てたから1泊2日で旅行に来ている。
知らない場所に知らない道を通って行って、知らない部屋で一晩眠る。見たことないものやことだらけで、ああ、この道路はいま通ってるきりで、もう一生通ることはないかもしれない、これからいくあの場所だって、さっき行ったあれの場所だってそうだ。もう一生来ることはないかもしれない。そう思いながら過ごす時間が長い。旅行は、物事の一回性を強く強く感じる時間だ。
わたしはそういう寂しさの上にある、一回限りの鮮やかな体験が好き。もう一度来られると思ってなかった場所を再訪したときの思いがけない親しみは何よりもあたたかくてもっともっと好き。

今日は、高校の行事で3泊ほど宿泊したホテルでお昼を食べた。数年前に泊まったそのホテルは訪れた街のなかではかなり大きなところで、とにかく食事がおいしかったことを覚えていたから、観光ガイドで見つけたときすぐにいきたいと言った。実際、久しぶりに食べた料理はすごくおいしかった。

夜は、たまたま見つけたすごくおしゃれな創作フレンチのお店に入った。小さなお店でお客さんがたくさんいたから料理が出てくるのにすこし時間がかかったけれど、料理やデザートはもちろん、食後の紅茶も気の利いたブランドですごくおいしかった。ノンアルコールのカクテルが料理に合わせて出てくるドリンクのコースが素敵だった。

ホテルに戻ってから調べたところ、なんと夜に訪れたそのレストランは、昼ごはんを食べたホテルで総料理長をしていた料理人が昨年独立して開いたお店だった。
わたしが高校の行事で訪れたのは3年ほど前だから、おそらくその料理人が総料理長をしていた頃だ。おしゃれな店構えに惹かれて入っただけだったから驚きだった。そりゃあおいしいはずだ。高校生の旅行で出される料理すらおいしかったんですもの。
こういうことがあるから旅行は好き。 一回限りの出来事だと思っている素敵ななにかに、もう一度出会えることがあるから。神さまってもしかしたらいるのかもしれないなってちょっと思う。

くるくる/映画

試験が終わった途端に髪を切ったり、友達とカラオケに行ったり(2回)、夜ごはんを食べたり忙しい。用事がない日は受験の参考書とかプリントの処分をしたり、余裕がなくて脱ぎ捨てたままのことが多かった洋服を片付けたり。あげくのはてに合格祝いで40インチのテレビを祖父に買ってもらって、ソファーまで新しく家に来てしまったから映画鑑賞の環境が整ってしまったし、ずっとやりたかった編み物も一通りの道具を発掘したからちょこちょこ編んでいる。本も読みたいし、1日動き回っている。

今日は映画を2本観た。
"Midnight in Paris"と"Lilting"という映画。"Lilting"の邦題はたしか『追憶の中で』みたいな感じだった。
"Midnight in Paris"は小説家になりたい売れっ子脚本家がパリで1920年代にタイムスリップする話。設定と衣装、美術はすごく良くて面白かったけれど、恋愛の流れと話の大筋はまあよくある前向き恋愛映画って感じであまり印象に残るものではなかった。面白かったけれど!
こちらはオススメされて観たものだったから期待値が高くてこんなもんかといった感想だったけれど、印象が強かったのは2本目の"Lilting"のほう。

中国系カンボジア人とイギリス人のハーフのイケメンのゲイが事故で突然死んでしまって、彼がゲイであることを知らない中国系カンボジア人の母と、その母に嫌われていた彼の恋人が向きあう話。
母はイギリスに来てから長いものの、英語も話せずイギリスの文化に馴染めないままでいて、息子だけを頼って生きていた結果彼の重荷になって老人ホームに突っ込まれた人。BBCが関わってるのもあってか移民の文化的な違和感とか親子関係の難しさ、ゲイのカップルのカミングアウトの悩みとか社会的な問題をいくつもテーマにしていたけれど、綺麗にまとめていて面白かった。色彩も絵も綺麗だし、中国語と英語のやりとりも心地よかった。
ゲイのカップルのラブシーンがある映画は初めてだったから一瞬身構えたけれど、なんだ同性愛のカップルだって普通に好きな人同士で相手を大切にしてることは変わらないんだって異性愛のカップルのラブシーンと変わらない印象で観られたからこそ、彼らが好きな人が同性だというだけで周りの目を気にして付き合うことってなんかおかしいなあという気持ちであとのシーンを観られたように思う。
みんなが好きな人を好きって堂々としていられたらいいのにね。不倫とかは難しい問題ではあるけども。