平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

海の音、空の星

プラネタリウムは、好きだけど、怖いものである。
暗闇で星に囲まれていると、宇宙の大きさを知って、自分の小ささに怖くなる。わたしは一人のただの人間で、わたしのこの目線と思考はわたしが死んだらなくなってしまう。わたしはどこからきて、なにものなのか。

わたしというフレームはあまりにももろくて、いま書いているだけでも気持ち悪くなってしまいそう。

だから、宇宙と星空は、素敵だけれど深く考えてはいけないものだった。


サカナクションのグッドナイト・プラネタリウム。上映が始まってから、ずっとずっと行きたいと思っていたけれどなかなか機会がなくて、上映開始から半年以上経ったいまごろになってようやく観に行くことができた。


雲を模したふかふかのベッドみたいなソファでさらさらでもふもふのクッションに埋もれながら寝転がって、まあるく優しく、だけどしっかり身体に響く音楽とともに頭上に広がる無数のきらめきを見つめる。

すぐ隣に人の気配がして、アロマのいい香りがするプラネタリウムは、全然怖くなかった。

40分のうち、星座の紹介はせいぜい15分といったところだったし、星に絡めたサカナクションの体験型映像作品と呼ぶほうが適切であったかもしれないが、とても心地がよかった。


ボーカルの山口一郎さんの声は静かなトーンで淡々としているけれど、間の取りかただろうか、不思議と聞き入ってしまう魅力があって、彼が空の星をうけて色を変える海のきらめきや、街の光に目がくらんで、星が見えなくなってしまった街、東京のことを話していると、胸がふわあっと浮き上がるような静かなときめきを感じた。
真っ暗闇を遠くからぼんやりと、けれどまっすぐ照らして行く先を教えてくれる灯台みたいな安心する声。


もともとうまく眠ることができなくて、特にここ最近は苦労していたから、プラネタリウムの40分間は、真っ暗な夜が安らかで心地の良いものにもなることを証明した、予想外の形で記憶に残る体験になってしまった。

映像を見ながらうっとりするあの環境を再現することは難しいけれど、とりあえず寝転がったときの環境なら近づけることはできる。
もともと欲しいと思っていたのに微妙に手の出しづらい値段で買い渋っていた、ふしぎな感触のクッションをまとめ買いした。

うすいブルーのまあるいのが3つと、白いお星さまが1つ。お届け予定日は明日。

届いたら、枕元はクッションでいっぱいのふかふかになる予定だ。
お星さまを抱きしめて、まだ見たことのない海と、きらきらまたたく空を思い浮かべたら、すこしは気持ちよく眠れるかしら。
おやすみなさい。

創造の想像


AIとかロボットみたいなテクノロジーとソーシャルネットワークが世の中全体に普及したら、もっと資本主義が進むしいろんなお仕事がなくなっちゃうから、よく考えて、自分で自分の人生を決めるんだよって、好きな先生に言われた。

中退したけど、わたしはそこそこ伝統があって上のほうに属する学校に通っていた。

でも、成功者はその成功がずっと続くと思っているから時代の流れを読み損ねて、置いていかれて没落する。たぶん、日本の上位に属する学校はそういう割合が高いなって身を持って思う。

中世から神学と並んで文系で最高の学問とされてきた法学を代表する弁護士ですらAIに取って代わられる世の中なら、なにが残るんだろう。


効率を重視する世の中なら、労働は全部機械に任せるのが最高なんじゃないかなあと思うけれど、社会の労働をすべてロボットやAIに任せて、人間は彼らの創造と娯楽に回ったらそれはもうロボットが担う社会なんじゃないかなと思ったりして。

そうしたら、わたしが生きている間の未来で、どの職業から消えていくのかって問題はすごく難しく感じて、結局機械系かクリエイターが安泰じゃないかって思うのだけど、機械科は資質的に厳しいし(最初は志望してたけど)、クリエイターは才能と人望と運がないと身を立てられないお仕事だと思っている。

人生ってやっぱり難しくない?
安泰とは。

考えること・夜


夜、車に乗って、助手席から電灯の並ぶ道路を窓から眺める。

空はまっくらなのに、たくさんの灯りに照らされて明るいままで。
小さいころから住んでいる街の、よく知っている風景のはずなのに、ぜんぜん違う気がする。


半年くらいの間に、いままでのわたしの人生で、わたしを当たり前に取り巻いていたものがいっぺんに去っていって、わたしは自分の好きなものとか、これだけは譲れないって思っていたことも見失った。

それから、はっきりとは意識していなかったけど、ずっとずっといろんなものについての考えごと繰り返していた。
たくさんの再考を重ねて、結論は出せなくてもそれなりに自分で納得がいく方向を探した。


そうやって見つけたあたらしい理由や意味を根拠にしているわたしは、いままでと同じひとなのかなって車に乗りながらぼんやり考えていた。
同じ思い出を持って、同じ顔立ちと同じ声を持っているけど、よりどころや、目指す先にもつ気持ちは、同じではない。

生きている、いまのわたしの芯になっているそういう気持ちが違ったら、違うひとって言ってもいいんじゃないかな。

ちょっと気が楽になった気がして、車の振動が心地よかった。

高い敷居について


いつもみている好きなバラエティ番組で、歌手志望のお姉さんの歌詞ノートを読みながら芸人がその内容をネタに笑っている場面があった。

自分に関係があるわけじゃなくても、すごく傷ついた。

お笑い芸人だって、おもしろいことを考えてお客さんを笑わせる表現者なのに、素人だからって、売れていないからって、ベクトルは違えど同じことをしているひとの表現を指さしてバカにしちゃうんだ。

その場ではぼんやり流したし、誰かに言うことはなかったけど、しばらくあたまの中にひっかかっていた。


なにかを表現すること、とくに歌詞とか文章は、自分の本質をそのままさらけ出すことだと思うから、わたしにとって作品をバカにして笑うことは作者自身を軽んじることに等しい。

世の中にはたしかに持つ者と持たざる者がいるということはわかっている。
けれど、どちらかを判断することってむずかしいことだと思う。
つたなくて、質の低いものをつくるひとでも磨けば光る原石かもしれないのに。


なんというか、こういうことに遭遇すると、自己表現はとりあえずかっこわるい、みたいな風潮をどうしても感じてしまう。

最初は自己陶酔にあふれたものでも、つっこみどころ満載でも、とりあえず最初の一歩を踏み出さないとなにもはじまらないし、自分に才能があるかなんてずっとずっと先でしかわからないかもしれないのに、踏み出したところで周りに笑われたら、そこでくじけてしまうひとはとても多いのではないだろうか。
すくなくとも、わたしは間違いなくくじける。

こうやって文章を書いていても、自分ではこれが自分に酔いしれている行動なのかそうじゃないのか、ひとにどう伝わるかは全然わからないから、読んでくれるひとがそんなに多くないのはわかっていても、公開するのはかなり怖い。

もっともっと、自己表現があたりまえの世の中になればいいのに。あるいは、胸をはってわたしの文章を読んで!って言えるような自分になりたい、な。

その色は青

幼いころから、「大人っぽいね」とか「落ち着いてるね」って周りのひとに言われることがすごく多い。
大人はたいていほめ言葉のように言ってくれるけれど、同年代の子どもがわたしにそう言うときは、ことばの内側にたしかな線引きがある。

大人っぽいから、こどもっぽいわたしたちとは考えていることが違うよね。落ち着いているから、わたしたちの言うことなんか面白くないよね。

やわらかだけど、明確な拒絶。
すごくさびしくなる。

被害妄想かもしれないし、こういうことを言っていること自体が自虐風自慢に聞こえるのかもしれないけれど、とにかくかなしい。

まわりの17歳の女の子があたりまえのように持っている、女子高生という称号、制服という記号を自分から投げ捨てておいて、「わたしのことを歳なりの女の子として見て!」なんて虫のいい話だとはわかっているけれど。

LINEを友だちとの自撮りアイコンにして、InstagramTwitterにはたくさんのリア友、週末ははやりのお店に並んだり、人気俳優が主演の青春映画を観に行って「楽しかったー!」なんてコラージュ動画をSNSにアップしたらいいねがたくさんくる、そんな女子高生にちょっと憧れる。普段は馬鹿にしてるくせに。

たりない知識と経験をふりしぼって世の中について考えて、わかったふりして小難しいこと書いては自分の幼さと浅はかさに愕然とするような人生より、まわりがなんと言おうと、いましか手に入れられなさそうな目の前の幸せを精いっぱい楽しめる人生のほうが幸せそうじゃない?

隣の芝生が青く見えてしまう自分の青さがもどかしい。まわりの評価に恥じないくらい、大人っぽく落ち着いていられれば良いのにね。

ダイヤモンドの覚悟


どうしてもやりたいことって、なかなか見つからない。

高校生が行きたい大学を探すときに、大人は「将来やりたい仕事とか目標から逆算して決めましょう」なんて言うけれど、たかだか16とか17で自分にはこれしかないって腹をくくって将来を描くことのできる人っていったいどれくらい存在しているんだろう。


わたしたち子どもの世界に明確に仕事を見せてくれる職業なんて、芸能人とかサッカー選手か先生くらいしかいない。

サラリーマンが具体的に何をしているかも知らないのに、将来の夢を考えたって思いつくのはぼんやりしたことばかりだし、そのかぎりなくあいまいな目標から逆算して決めた進路には、たぶん覚悟を決めて勉強とかなにかに打ち込めるほどの説得力はない。


だから、わたしは大人になってやりたい仕事より、いまの自分が心の底から好きだと胸を張って言えるものが何なのかをずっと考えていた。

好きである、興味があるっていうものにはできるだけたくさん接していたいし、できるだけ生活の多くの部分をその好きなものが占めているほうが幸せだと思うから、結果的には「したいこと」になる。だけど、その「したいこと」は将来の夢とは違っていまの自分と密接しているからこそたぐり寄せることのできたものだ。


「将来やりたいことを見つける」というのは、未来の自分がその未来でやってみたいと思うことをいま現在の視点や価値観から想像することで、一年先さえ見当もつかないのにそのずっと先を見渡さないといけないから難しいし、その想像がこの先数年を費やしてもいいと思えるほどたしかなものになることはすごく少ない。

それに比べると、いまの自分とできる限り誠実に向き合って見つけた「したいこと」はずっと身近だから、叶えるために必要な努力も想像がしやすい。だから、より真面目に受けとめることができた。


けれど、物心ついてからたった十数年の少ない経験の中でさえ、ふたを開けてみたら現実は理想と大きく違っていてがっかりしたことはたくさんあったから、臆病なわたしは探し出した「したいこと」が本当にいまの自分の楽しい時間を諦めて費やす努力に値するものかどうかわからなくて足踏みをしていた。


実際に体験してみるまで物事の実態をつかむことは難しい。だから、無数に分岐する可能性におびえて一度歩みを止めてしまったらそこから前に進むことってすごく大変だ。


わたしはいま、自分の実力で飛べる高さより高いハードルを越えることを目指しているのだけれど、本当にその目標が飛ぶことのできる高さなのか、越えた先に待っていることははたして本当にいちばん惹かれるものなのかがわからなくなって、逃げ道を探そうとしていた。

せっかく苦しい努力をしたって待ちうけているものが他の選択肢と変わらないなら、楽なほうを選んで、そこから生まれる余裕をいましたいことに回すほうが良いのかもしれないって思った。


そういうときに、たまたま、わたしが目指す道を通って、さらにその先を歩んでいる方にお会いすることができて、得たものはすごく大きかった。

無謀な挑戦かもしれないけれど、越えた先で待っていることはやっぱり本当にどうしようもなく眩しいんだってことを教えてもらって、わたしはどうしてもたどり着きたいと思った。

いま高いハードルを越えることはゴールじゃなくて、むしろ越えてからがスタートだと思うのだけれど。

わたしの目指す、たしかな世界が動き始めたと強く感じた。

わたしのそばに輝く星

人の一生を86年とすると、2年間はおよそ2.3%にあたる。
全体の50分の1よりちょっとおおいだけの、ほんのすこしの時間に見えるかもしれないけれど、17歳のわたしにとっての2年間はいままでの人生の12%を占めている。

それだけの期間、変わらずずっとひとつのものに夢中でいられるって、すごいことなんじゃないだろうかとおもう。


わたしがTokyo 7th シスターズに出会ったのは2014年の3月のはじめ、いまから1年11ヶ月と2週間くらい前のことで、正確にいうとまだ2年前じゃないんだけれど、今日はそのTokyo 7th シスターズあらためナナシスが世の中に出てからぴったり2年の節目の日だから、そのナナシスについてすこしだけ。


ナナシスがリリースされた2014年、わたしはオタクが嫌いだった。

中学1年生のころにたまたま曲を聞いたボーカロイドがきっかけで、わたしステレオタイプな二次元オタクになりかけていたのだけど、それを知った周りの引きよう、わたしを気持ち悪がる様子はかなりショックだった。

本を読むことと、ネットでボーカロイドの曲を聴くことはその頃のわたしにとっては、どちらも大好きな自分だけの世界を広げる・楽しむためのツールで、二つの間にはなにも違いがなかったからだ。

自分のなかの気持ちは同じでも、一方は気持ち悪がられるのに、もう一方は熱意を表に出せば出すほどほめられ、得になっていった。


アニメや漫画、ボーカロイドを好きな人は気持ち悪いから、二次元は総じて、気持ち悪い。好きでいたら周りから嫌われてしまうから、好きになることはすごく良くないことだ。
そう思う気持ちがすこしずつ大きくなっていって、わたしは自分がアニメを漫画に興味があることを絶対に認めなかったし、オープンに「気持ち悪い」ことを好きだ、と言うオタクが大嫌いだった。


「アイドルなんて大っ嫌い!」
可愛いイラストがどうしても気になって、こっそりはじめたアイドルを育てるゲームで主人公が最初に放ったセリフに仰天した。そのまま、夢中でシナリオを読み進めた。

それが、2年前の3月のはじめのこと。いまでも、わたしは変わらず彼女に心を奪われたままだ。

二次元の世界は、ちっとも気持ち悪くなんてなかった。痛いくらいまっすぐに、素直に、夢に向かってまばゆい輝きを放とうともがいていた。

美化された虚構に目を輝かせて胸をおどらせるわたしは周りがみたら気持ち悪いのかもしれないけど、そんなの関係ないと心から思えるくらいに魅力的だった。


今日ゲーム内でリリースされた2周年記念のシナリオを読んで、こみあげてきた気持ちは自分でもうまく表すことができなくて、いま文章を書いていても伝えたいことはどんどんわたしのなかに湧き上がってあふれてきて、正直とまどっているのだけれど。


どんなかすかなきらめきをも見つけだして、まわりで起こることをすべて輝きに変えていった七咲ニコルと7th シスターズ。
彼女たちがのこしていった光の尾をつかもうと、いままさに自らをまばゆく輝かせようとしているナナスタの女の子たちへ。

これからもっとずっときらきらと照らしてくれると、わたしは信じています。まだ見ぬ未来へのワクワクでいっぱいにさせてください。

1stライブに続き、またしても2ndライブへの参加は果たせないと思うけれど、ナナスタのみんなの努力に、笑顔に支えられています。ありがとう。そして、これからもよろしくね。