平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

厚い雲に覆われて

冬へのラブレターを突発的に書きなぐってブログをはじめてから1年が経ったらしく、はてなブログからメールが来た。

切れ味の鋭い寒さに震えながらも、その鮮やかな静けさにうきうきしていた12月1日は、最新の12月1日ではなくなってしまった。

おととしの12月1日は何をしていたのか覚えていないし、こうやって日々はすこしずつすこしずつ重ねられて、それぞれの輪郭を失って大きな"過去"というまとまりの中に溶けていくんだ、とさびしくなる。


わたしはまだ若いけれど、1日1日確実にその若さは色あせていく。
流れるように歳をとるうちに、気がつけば若さだけを失って、何も得ないまま花びらは散ってしまうような気がする。

物事にはいろんな側面があって、なにかを失うということは同時に必ずなにかを得ることだ、ということくらいは若いわたしでも知っているけど、失うかわりに得たものが必ずしも失ったものより豊かである保証はない。


1年のあいだにいろんな知識を得たはずなのに、わたしは俯いてばかりいるようで。
書いたり話したりせずにはいられないような発見や、すらすらと重ねることのできた言葉はどこへ行ってしまったのだろう。
文章を書く手が何度も止まる。

大人の階段を上がっているつもりでも、実は天地が逆さまで、目が離せないようなきらめきからどんどん遠ざかって、転がり落ちているだけかもしれない。

雨は止むだろうか、光はふたたび射すだろうか。

ぼくらが旅に出る理由


小沢健二は歌の中で教えてくれなかったけど、わたしたちにはたしかに旅に出る理由がある。

二人がけのシートから見る景色は、七人がけに座ってみるよりずっとエモーショナルだといつも思う。なぜだろうか。


遠くに響く電車がレールの上を走る音を聞きながら、小刻みな振れを感じながら、窓の外に広がる景色を見て、わたしはいろんなことを考える。

(バックパックひとつ背負って一年間旅行に出るとしたら、お洋服はどうしたらいいんだろう。モードをまといながら旅をするバックパッカーはいないだろう。ということは、おしゃれをするには、空間の所有が必要条件ということ?)
とか。

(他人の人生の一瞬。通りすぎた家の二階に、お母さんと若い娘が二人たちつくしてるのを見て、電車の乗客に家の中の暮らしを見られても、乗客は家族の名前を知ることもないし、きっと出会うこともないから恥ずかしくなんてないんだろうな。でも、街中で視線を浴びることはおおむねの日本人にとって恥ずかしいことだろうし、恥は相手の反応をうけて初めて恥となりうるんだろう。)
とか。



人と話すとき・文章を書くときは、できるだけむずかしい言葉、相手にとって耳なじみがないだろうと考える表現は使わないようにしている。
人と違っている点は個性だけど、自分から見せびらかしていくのは、ただただ見苦しいものになるかもしれないし、周りのひとと同じようなふるまいをしていてもなおにじみ出てくる特異な魅力があるひとこそ、本物の個性を持つひとだと思うから。


だけど、考えごとをしているときは、むずかしい言葉も、自分が心地よいと思うかたくるしい表現も好きなだけ使える。

ほかのひとのあたまのなかが読める人はたぶんいないし、いたとしても、まあ人生で一人か二人遭遇するくらいだろうし、わたしのあたまのなかの考えごとはほぼ完全にわたしだけのものだ。


でも、ひとりで自分の世界に完全に浸って、つらつらととりとめもなく、好きなように考えごとができる機会って以外に少ない。

知らない場所にいるときの違和感や新鮮さは、逆説的に、自分の居場所と、その居場所が居場所たらしめる理由をあきらかにしてくれるものだと思う。

だから、つねに見慣れないものに刺激を受けつづける旅は、考えごとを始めるきっかけに事欠かないし、もやもやとまとまらない自分のあたまのなかを整理して答えを出すためのかっこうの機会だ。旅に出る理由、その一。



その二は、自分の地図が広がること。
あたりまえのことだけど、やっぱり写真や映像はその場所の空気や匂いを表現できないし、実際に行ってみるまではそこが実在することを実感できない。

地図は、広いほうがいいに決まっている。
いろんな場所に行って、いろんなことを知ると、自分の引き出しが増えるし、思考の選択肢もきっと増える。
増えた引き出しはいつも使えるものにはならないかもしれないけれど、ふとした拍子にものすごく役に立ったりするものだと思うのだ。



だから、手をふってしばしの別れを、そして祈りたい、旅にでる幸せを。

海の音、空の星

プラネタリウムは、好きだけど、怖いものである。
暗闇で星に囲まれていると、宇宙の大きさを知って、自分の小ささに怖くなる。わたしは一人のただの人間で、わたしのこの目線と思考はわたしが死んだらなくなってしまう。わたしはどこからきて、なにものなのか。

わたしというフレームはあまりにももろくて、いま書いているだけでも気持ち悪くなってしまいそう。

だから、宇宙と星空は、素敵だけれど深く考えてはいけないものだった。


サカナクションのグッドナイト・プラネタリウム。上映が始まってから、ずっとずっと行きたいと思っていたけれどなかなか機会がなくて、上映開始から半年以上経ったいまごろになってようやく観に行くことができた。


雲を模したふかふかのベッドみたいなソファでさらさらでもふもふのクッションに埋もれながら寝転がって、まあるく優しく、だけどしっかり身体に響く音楽とともに頭上に広がる無数のきらめきを見つめる。

すぐ隣に人の気配がして、アロマのいい香りがするプラネタリウムは、全然怖くなかった。

40分のうち、星座の紹介はせいぜい15分といったところだったし、星に絡めたサカナクションの体験型映像作品と呼ぶほうが適切であったかもしれないが、とても心地がよかった。


ボーカルの山口一郎さんの声は静かなトーンで淡々としているけれど、間の取りかただろうか、不思議と聞き入ってしまう魅力があって、彼が空の星をうけて色を変える海のきらめきや、街の光に目がくらんで、星が見えなくなってしまった街、東京のことを話していると、胸がふわあっと浮き上がるような静かなときめきを感じた。
真っ暗闇を遠くからぼんやりと、けれどまっすぐ照らして行く先を教えてくれる灯台みたいな安心する声。


もともとうまく眠ることができなくて、特にここ最近は苦労していたから、プラネタリウムの40分間は、真っ暗な夜が安らかで心地の良いものにもなることを証明した、予想外の形で記憶に残る体験になってしまった。

映像を見ながらうっとりするあの環境を再現することは難しいけれど、とりあえず寝転がったときの環境なら近づけることはできる。
もともと欲しいと思っていたのに微妙に手の出しづらい値段で買い渋っていた、ふしぎな感触のクッションをまとめ買いした。

うすいブルーのまあるいのが3つと、白いお星さまが1つ。お届け予定日は明日。

届いたら、枕元はクッションでいっぱいのふかふかになる予定だ。
お星さまを抱きしめて、まだ見たことのない海と、きらきらまたたく空を思い浮かべたら、すこしは気持ちよく眠れるかしら。
おやすみなさい。

創造の想像


AIとかロボットみたいなテクノロジーとソーシャルネットワークが世の中全体に普及したら、もっと資本主義が進むしいろんなお仕事がなくなっちゃうから、よく考えて、自分で自分の人生を決めるんだよって、好きな先生に言われた。

中退したけど、わたしはそこそこ伝統があって上のほうに属する学校に通っていた。

でも、成功者はその成功がずっと続くと思っているから時代の流れを読み損ねて、置いていかれて没落する。たぶん、日本の上位に属する学校はそういう割合が高いなって身を持って思う。

中世から神学と並んで文系で最高の学問とされてきた法学を代表する弁護士ですらAIに取って代わられる世の中なら、なにが残るんだろう。


効率を重視する世の中なら、労働は全部機械に任せるのが最高なんじゃないかなあと思うけれど、社会の労働をすべてロボットやAIに任せて、人間は彼らの創造と娯楽に回ったらそれはもうロボットが担う社会なんじゃないかなと思ったりして。

そうしたら、わたしが生きている間の未来で、どの職業から消えていくのかって問題はすごく難しく感じて、結局機械系かクリエイターが安泰じゃないかって思うのだけど、機械科は資質的に厳しいし(最初は志望してたけど)、クリエイターは才能と人望と運がないと身を立てられないお仕事だと思っている。

人生ってやっぱり難しくない?
安泰とは。

考えること・夜


夜、車に乗って、助手席から電灯の並ぶ道路を窓から眺める。

空はまっくらなのに、たくさんの灯りに照らされて明るいままで。
小さいころから住んでいる街の、よく知っている風景のはずなのに、ぜんぜん違う気がする。


半年くらいの間に、いままでのわたしの人生で、わたしを当たり前に取り巻いていたものがいっぺんに去っていって、わたしは自分の好きなものとか、これだけは譲れないって思っていたことも見失った。

それから、はっきりとは意識していなかったけど、ずっとずっといろんなものについての考えごと繰り返していた。
たくさんの再考を重ねて、結論は出せなくてもそれなりに自分で納得がいく方向を探した。


そうやって見つけたあたらしい理由や意味を根拠にしているわたしは、いままでと同じひとなのかなって車に乗りながらぼんやり考えていた。
同じ思い出を持って、同じ顔立ちと同じ声を持っているけど、よりどころや、目指す先にもつ気持ちは、同じではない。

生きている、いまのわたしの芯になっているそういう気持ちが違ったら、違うひとって言ってもいいんじゃないかな。

ちょっと気が楽になった気がして、車の振動が心地よかった。

高い敷居について


いつもみている好きなバラエティ番組で、歌手志望のお姉さんの歌詞ノートを読みながら芸人がその内容をネタに笑っている場面があった。

自分に関係があるわけじゃなくても、すごく傷ついた。

お笑い芸人だって、おもしろいことを考えてお客さんを笑わせる表現者なのに、素人だからって、売れていないからって、ベクトルは違えど同じことをしているひとの表現を指さしてバカにしちゃうんだ。

その場ではぼんやり流したし、誰かに言うことはなかったけど、しばらくあたまの中にひっかかっていた。


なにかを表現すること、とくに歌詞とか文章は、自分の本質をそのままさらけ出すことだと思うから、わたしにとって作品をバカにして笑うことは作者自身を軽んじることに等しい。

世の中にはたしかに持つ者と持たざる者がいるということはわかっている。
けれど、どちらかを判断することってむずかしいことだと思う。
つたなくて、質の低いものをつくるひとでも磨けば光る原石かもしれないのに。


なんというか、こういうことに遭遇すると、自己表現はとりあえずかっこわるい、みたいな風潮をどうしても感じてしまう。

最初は自己陶酔にあふれたものでも、つっこみどころ満載でも、とりあえず最初の一歩を踏み出さないとなにもはじまらないし、自分に才能があるかなんてずっとずっと先でしかわからないかもしれないのに、踏み出したところで周りに笑われたら、そこでくじけてしまうひとはとても多いのではないだろうか。
すくなくとも、わたしは間違いなくくじける。

こうやって文章を書いていても、自分ではこれが自分に酔いしれている行動なのかそうじゃないのか、ひとにどう伝わるかは全然わからないから、読んでくれるひとがそんなに多くないのはわかっていても、公開するのはかなり怖い。

もっともっと、自己表現があたりまえの世の中になればいいのに。あるいは、胸をはってわたしの文章を読んで!って言えるような自分になりたい、な。

その色は青

幼いころから、「大人っぽいね」とか「落ち着いてるね」って周りのひとに言われることがすごく多い。
大人はたいていほめ言葉のように言ってくれるけれど、同年代の子どもがわたしにそう言うときは、ことばの内側にたしかな線引きがある。

大人っぽいから、こどもっぽいわたしたちとは考えていることが違うよね。落ち着いているから、わたしたちの言うことなんか面白くないよね。

やわらかだけど、明確な拒絶。
すごくさびしくなる。

被害妄想かもしれないし、こういうことを言っていること自体が自虐風自慢に聞こえるのかもしれないけれど、とにかくかなしい。

まわりの17歳の女の子があたりまえのように持っている、女子高生という称号、制服という記号を自分から投げ捨てておいて、「わたしのことを歳なりの女の子として見て!」なんて虫のいい話だとはわかっているけれど。

LINEを友だちとの自撮りアイコンにして、InstagramTwitterにはたくさんのリア友、週末ははやりのお店に並んだり、人気俳優が主演の青春映画を観に行って「楽しかったー!」なんてコラージュ動画をSNSにアップしたらいいねがたくさんくる、そんな女子高生にちょっと憧れる。普段は馬鹿にしてるくせに。

たりない知識と経験をふりしぼって世の中について考えて、わかったふりして小難しいこと書いては自分の幼さと浅はかさに愕然とするような人生より、まわりがなんと言おうと、いましか手に入れられなさそうな目の前の幸せを精いっぱい楽しめる人生のほうが幸せそうじゃない?

隣の芝生が青く見えてしまう自分の青さがもどかしい。まわりの評価に恥じないくらい、大人っぽく落ち着いていられれば良いのにね。