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平静とロマン

平成生まれの大正浪漫18歳

2月6日 いぬのこと


金曜日からいぬが体調を崩していて、食べものを受けつけなくなっていました。

5歳の彼は生まれて3ヶ月でわたしの家に来てから、怪我も病気もしたことがなかったので本当にほんとうに心配で、おなかに軽く湿疹があったりぐったりしている様子をみてこのまま死んでしまったらどうしようってずっと泣きそうでした。

土日をはさんだところ、いつもみたいに元気にふるまう余裕が出てきたのでほっとしたものの、どうしてあんなに苦しそうにしていたのにすぐ病院に連れて行ってもらえなかったんだろうって不満は内緒です。

2月5日 香料のこと

今日は森鴎外舞姫を読んでいます。
ちょうどヴィルヘルム1世とビスマルクの時代が終わるころが舞台で、受験の世界史という観点から見ても面白い時期ですし、旧仮名かつ古文のために暗記していた単語が生きた文章として出てくるので勉強にもなります。


ところで、無果汁なのにレモンスカッシュ!とか、温州みかん味!と謳っている清涼飲料ってなんとなくディストピア感がありませんか。

メロンソーダは例外として、無果汁なのにフルーツ風味の飲み物って、飲むとたしかに言われたとおりのフルーツの味がするんですよね。
でも、実際には香料しか入っていない。
フルーツ抜きのフルーツ飲料に違和感を持たないわたしたちは、そのうち肉や魚が人工のものに変わっても気がつかなくなるんじゃ……みたいなことをかんがえていました。

西暦2×××年、世界の人口の増加に食物の供給が追いつかない一方で先進国の豊かな人々は新鮮な肉を求め続けた。増え続ける需要に応えることができなくなった社会は密かに本物の肉と区別のつかない人工肉を開発し、世間の目と舌を誤魔化し続けている。しかし、鋭い味覚を持つ一部の上流階級は人工肉の繊維の"プチプチ感"が天然肉と違うことを見抜いた。
彼らはほんのわずかしか出回らなくなってしまった天然肉を秘密裏に入手し、最高の天然肉を食べるために夜な夜な集まる。しかし、高度に管理された社会でその秘密を知り晩餐への参加が許されるのは厳しい選考会を勝ち抜いた一握りの人間のみ。
天然肉を口にするためだけに命を賭けた"格付け"がはじまる……。

今日はこれが書きたかっただけです。

実際、本物の肉と区別のつかない人工肉の開発が進んでいるそうですが(WIREDで読んだだけ)、一度食べてみたいですね。

2月4日 青空文庫のこと

蟹工船と清貧の書を青空文庫で読みました。

青空文庫は留学中に他に古典を読む手段がなかったから使いはじめたのですが、思いのほか使いやすくて、青空文庫を読むためだけにKindleのペーパーホワイトを買おうかなあと思っているところです。

わたしが使っている青空文庫リーダーは背景色と文字色はもちろん、フォントや文字数、余白の広さまで自分で設定できるから、設定を変えればiPhoneでもそこまで気にならずに本が読めるけど、やはり6sだと画面が狭いのと寝る前に読むと眠れなくなりそうなのが怖いからKindleが欲しいと思ってしまいますね。


あと、小川未明とか宮沢賢治みたいな、ふだん好きなはずの作家さんは、作品一覧でずらっと並んでいるところから数ページしかない作品をダウンロードして読むとずいぶんあっけなく終わってしまって、そっけなく感じるうから紙の本でまとめて読むほうが向いているかも。

男もすなる日記といふものを


女もしてみむとてするなり。
ええ、それだけです。
受験生らしく付け加えるとすれば、男もすなる、のなるは終止形接続伝聞、文末のなりは連体形接続断定の助動詞ですね。


2017年に入って受験シーズンにいよいよ突入したところで、やめようとしてもなかなかやめられなかったTwitterをおやすみする決心をして、Twitterを続ける限り絶対に消さないぞと決めていたメインのアカウントを消したのですが、そうすると生きた文章を読む場所も書く場所もなくて。

酸素のように活字を吸い込んで吐き出していたところから全く摂取しない生活に一転して苦しくならないはずがなく、口をぱくぱくさせながら床を転げまわるしかなくなってしまったので
、毎日手短に日記を書くことにしました。


1週間くらい書いて飽きた3年日記とか、そもそも8ヶ月しか滞在しなかったのに4ヶ月くらいで飽きて放り投げた留学日誌などの前科があるのでいつまで続くかはわかりませんがとりあえず続けてみます。
どうぞよしなに。

二ヶ月後のわたしへ


こんにちは。あるいはこんばんは、おはよう。
お久しぶりです。2017年2月3日、22時くらいのわたしです。

とりあえず浪人はしていないはずなのでもうすぐ入学式だと思いますが、スーツはどうしましたか?ヴィヴィアンのラブジャケットはやめましたか?
とりあえず受験中にたぷたぷになってしまったおなかと二の腕、ふとももを引き締めていることを祈ります。まだならはやく頑張れ。


さて、現時点でのわたしは私立の受験開始まで1週間とすこしとなり、ようやく勉強しようかなあと思いはじめたところです。
友達が週に90時間近く勉強していることに気がついてさっきまで劣等感でいっぱいになっていたのですが、いまは気持ちを切り替えてなんとか後悔・絶望と折り合いをつけてうまく追い込みできるようにこうして手紙を書いて調整しようとしてるよ。


わたしはまだ自分の受験期の終わりかたを知らないんだけど、わたしのここ1年の生活はなんとか有意義なものになれたのでしょうか。

最高で週55時間も勉強しなかったけどこの大学受かったし、勉強は時間じゃないよ!って笑って言える?高校中退して、バイトしながら家で勉強しても大学に入れましたって胸を張れる?


たぶん勉強は時間じゃないよ!とは言えないよね。みんなと同じ時間だけ勉強できてたらたぶん東大レベルまで到達してたよね。諦めずに済んだよね。
けど、どれだけ頑張ろうと思っても机にはりつくことはできなかったし、全力投球の勉強ができないことでどれだけの時間悩んで眠れなくなって涙を流して苦しい思いをしたかはあなたもわたしもよく知ってる。

たとえどれだけ才能に溢れていたとしても努力をする才能が欠けていたら何者にもなれないんだって苦しかったよね。正直、いまでも苦しいよ。実際センター終わってからまた勉強に身が入ってないし。


でも、大学に入れたことが自分を認めてあげるための一つの手助けにはなってるんじゃないかな。
わたしにはわたしのやり方があって、それが世の中の正攻法とは大きく違っているかもしれないけど、わたしはそれでもいいんだって、合格通知が教えてくれるんじゃないかなってすこし期待しています。


あなたがすこしでも生きやすくなっているといいなあ。
なんとなく、いまの自分ができるだけの努力をしてみようかなって気になってきました。

お互いにこれからのことにドキドキしていると思うけど、変に肩の力を入れすぎないように、気持ちいいくらいの力加減で頑張りましょうね。


赤本を枕元に置いているけどそのまま寝ようとしているわたしより

厚い雲に覆われて

冬へのラブレターを突発的に書きなぐってブログをはじめてから1年が経ったらしく、はてなブログからメールが来た。

切れ味の鋭い寒さに震えながらも、その鮮やかな静けさにうきうきしていた12月1日は、最新の12月1日ではなくなってしまった。

おととしの12月1日は何をしていたのか覚えていないし、こうやって日々はすこしずつすこしずつ重ねられて、それぞれの輪郭を失って大きな"過去"というまとまりの中に溶けていくんだ、とさびしくなる。


わたしはまだ若いけれど、1日1日確実にその若さは色あせていく。
流れるように歳をとるうちに、気がつけば若さだけを失って、何も得ないまま花びらは散ってしまうような気がする。

物事にはいろんな側面があって、なにかを失うということは同時に必ずなにかを得ることだ、ということくらいは若いわたしでも知っているけど、失うかわりに得たものが必ずしも失ったものより豊かである保証はない。


1年のあいだにいろんな知識を得たはずなのに、わたしは俯いてばかりいるようで。
書いたり話したりせずにはいられないような発見や、すらすらと重ねることのできた言葉はどこへ行ってしまったのだろう。
文章を書く手が何度も止まる。

大人の階段を上がっているつもりでも、実は天地が逆さまで、目が離せないようなきらめきからどんどん遠ざかって、転がり落ちているだけかもしれない。

雨は止むだろうか、光はふたたび射すだろうか。

ぼくらが旅に出る理由


小沢健二は歌の中で教えてくれなかったけど、わたしたちにはたしかに旅に出る理由がある。

二人がけのシートから見る景色は、七人がけに座ってみるよりずっとエモーショナルだといつも思う。なぜだろうか。


遠くに響く電車がレールの上を走る音を聞きながら、小刻みな振れを感じながら、窓の外に広がる景色を見て、わたしはいろんなことを考える。

(バックパックひとつ背負って一年間旅行に出るとしたら、お洋服はどうしたらいいんだろう。モードをまといながら旅をするバックパッカーはいないだろう。ということは、おしゃれをするには、空間の所有が必要条件ということ?)
とか。

(他人の人生の一瞬。通りすぎた家の二階に、お母さんと若い娘が二人たちつくしてるのを見て、電車の乗客に家の中の暮らしを見られても、乗客は家族の名前を知ることもないし、きっと出会うこともないから恥ずかしくなんてないんだろうな。でも、街中で視線を浴びることはおおむねの日本人にとって恥ずかしいことだろうし、恥は相手の反応をうけて初めて恥となりうるんだろう。)
とか。



人と話すとき・文章を書くときは、できるだけむずかしい言葉、相手にとって耳なじみがないだろうと考える表現は使わないようにしている。
人と違っている点は個性だけど、自分から見せびらかしていくのは、ただただ見苦しいものになるかもしれないし、周りのひとと同じようなふるまいをしていてもなおにじみ出てくる特異な魅力があるひとこそ、本物の個性を持つひとだと思うから。


だけど、考えごとをしているときは、むずかしい言葉も、自分が心地よいと思うかたくるしい表現も好きなだけ使える。

ほかのひとのあたまのなかが読める人はたぶんいないし、いたとしても、まあ人生で一人か二人遭遇するくらいだろうし、わたしのあたまのなかの考えごとはほぼ完全にわたしだけのものだ。


でも、ひとりで自分の世界に完全に浸って、つらつらととりとめもなく、好きなように考えごとができる機会って以外に少ない。

知らない場所にいるときの違和感や新鮮さは、逆説的に、自分の居場所と、その居場所が居場所たらしめる理由をあきらかにしてくれるものだと思う。

だから、つねに見慣れないものに刺激を受けつづける旅は、考えごとを始めるきっかけに事欠かないし、もやもやとまとまらない自分のあたまのなかを整理して答えを出すためのかっこうの機会だ。旅に出る理由、その一。



その二は、自分の地図が広がること。
あたりまえのことだけど、やっぱり写真や映像はその場所の空気や匂いを表現できないし、実際に行ってみるまではそこが実在することを実感できない。

地図は、広いほうがいいに決まっている。
いろんな場所に行って、いろんなことを知ると、自分の引き出しが増えるし、思考の選択肢もきっと増える。
増えた引き出しはいつも使えるものにはならないかもしれないけれど、ふとした拍子にものすごく役に立ったりするものだと思うのだ。



だから、手をふってしばしの別れを、そして祈りたい、旅にでる幸せを。