平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

渋谷・名曲喫茶ライオン

待ち合わせ時間までに余裕があったので、友達と遊ぶ前に乗り換え駅の渋谷でずっと気になっていた名曲喫茶ライオンに小一時間ほど寄ってきた。

京都の喫茶ソワレを彷彿とさせるほんのり青い照明の、薄暗い店内の奥には2,3メートルほどのオルガンのような木製のスピーカーと大量のレコードの入った棚があり、一階席の座席はほとんど二人掛けか一人掛けでスピーカーに背を向けて座ることがないように配置されていた。

一階席の適当な一人掛けに座ってから気づいたが、二階席・三階席があり、わたしのあとに来た数人のお客はほとんど上の席に直行していた。オルガンのようなスピーカーと二階席の位置関係がわたしが通っていた学校の講堂みたいで、朝の礼拝を思い出してすこししんみりした。

お水と一緒にグッとくるデザインの演奏プログラムを渡されて一人でこっそり盛り上がってしまった。表紙の手書き感の強い飾り文字に、中のキャッチコピー!

"真のHiFi","(帝都随一を誇る)"なんて言葉が踊るプログラムなんて、ドキドキするしかない。

携帯電話使用禁止・撮影禁止だったのでクリームソーダも今回は文章のみでご報告。

ホットコーヒーが500円の名曲喫茶ライオンのクリームソーダは720円。やや高めだが渋谷は茶亭羽當(紅茶950円)もあるし、そもそも物価高めの町なので妥当な価格と言えるだろう。

グラスは、高さ10cmほどのロックグラス!
田舎の祖父母の家とかで出てくるような、曲線の意匠が彫られた分厚いグラスだった。少なくとも都内近郊の喫茶店ではとても珍しいはず。

ソーダ水はスタンダードな緑。炭酸は弱めで、口に含むとちょっと主張を感じる程度だった。色が濃いわりにほとんど甘くない。
甘くないソーダ水は先日訪ねた荻窪の珈里亜に続いて二店目で、シロップのあまーい味を想定して飲むとちょっとふしぎな気持ちになる。使っているのがかき氷シロップじゃないのだろうか。

上に乗ったアイスクリームはまんまるで、控えめな大きさだったが脂肪分が多いわけでもしゃりしゃりなわけでもないなめらかなアイスだった。

アイスが溶けるのはゆっくりめで、甘さ控えめのソーダ水は続けて飲むと水のようだけれど、しばらく時間をおいてもうひと口飲むとほんのり甘さを感じるようなゆっくり飲むのに適したクリームソーダだった。

音の良いクラシックに耳を傾けながら気持ちよくぼんやりするのにも、読書に集中するのにも向いている喫茶店だったのでおそらくまた行く。今度は二階席で。

上野・王城

こんばんは、本日のクリームソーダ部の活動報告です。

今日の喫茶店は上野の駅から徒歩3分ほど、アメ横の上野側の入り口付近にある喫茶王城。



阿佐ヶ谷gion系のシロップ濃いめの甘ったるくて(褒めてる)、微炭酸がしゅわしゅわするソーダ水に、甘さ控えめやや固めのアイスクリームが乗っていた。アイスクリームは牛脂みたいなしっとりした独特の食感だった。溶けるのは遅めだったように思う。さくらんぼは正義。

くびれのないつるんとしたワイングラス型のグラスは清純派美人という印象。

ゴブランの座席もかわいかったし出てくるのがとても早かった。700円は都会価格かな。

明け方から送信

こんにちは、おはようございます、こんばんは。ただいまの時刻は午前5時6分、明け方です。
試験勉強をしていて、ひと段落したので仮眠を取ろうとしたのですがカフェインの影響でどうにも眠れなくて、仕方なく買ったまま置いておいた坂元裕二さんの『初恋と不倫』という往復書簡形式の本を手に取ったらどうにもこうにもエモーショナルになってしまって、どうしようもなくなってしまったのでこうして文字を書いています。わたし、往復書簡に弱いんですよね。手紙と手紙、メールとメールの間に現実では何が起こっていたのかは行間からしか読み取れない、現実から一歩離れた虚構らしい感じが好きなんだと思います。

わたしのすごく嫌いなアニメがあるんですけど、キャラクターとか、演出とか、そういうのは大好きで、だからこそ納得のいかない話の進め方をして、ひどく理不尽な終わり方をしたのが許せなくて大嫌いなんですが、そのアニメにね、こういう口上があるんです。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。」
何者にもなれない、ってどういうことかよくわからないでしょう。でも、すごくわかるんです。わたしはずっとずっと自分の輪郭がわからないままぼんやり生きていて、きっとこのまま、「自分」を手に入れて、名前が残るような「あの人」になることがないまま、無名の誰かとしてぼんやり死んでしまうんだろうなって実感があって。
それが、「何者にもなれない」ってことなんだろうなって。

ああ、何を書きたいかよくわからなくなってきちゃいました。
けど、けど、わたしは何者にもなれないかもしれないけど、なら、無名の人のままでいいから、せめてわたしがいたんだって痕跡をどこかに残したいなって。100年たったらいま周りにいる人はみんな死んでるし、1000年たったら化石になっちゃうんですけど。それでもいいから、残せたらなって思う。

お芝居って見たことないんですけど、不思議と好きな作家はみんな演劇畑出身の人で。どうしてだろうって考えて、出た結論が、きっとわたしは「今」に必死でしがみついていて、飾り気のない、それでもうつくしい「今」が好きで好きでしょうがないんだろうなってことで。だから、たぶん生の人間が動いて話して生の人間に見せるお芝居の臨場感がわかっている人たちの書く生きていることのスピード感と鮮やかさが好きなんだろうなって。

だから、きっとそういうのがいいんだろうなって思います。とりあえず今はそんな感じで。脚本家になりたいとか、そういう宣言はしません。好きです、それだけ。

壊れた鍵穴

季節は息をしているだけでも確実に、容赦なく過ぎていく。満開の桜の下で、春風に吹かれながら記念撮影をしたばかりだと思っていたのに、寒々しかった並木はあっという間に緑に茂って、アスファルトの道路の先にはかげろうが揺らぐ時期になってしまった。

映画を観るひまもなくなってしまったくらい毎日まいにち忙しいけれど、わたしはなんとか生活に適応して、友達を作って、げらげら笑ったり歯を食いしばって涙をこらえたりしながら生きている。きちんと、生きていけている。

前を向いて、ぐいぐい大股で歩みを進めていくしかないような日々だけれど、ときどき立ち止まってまわりを見渡してみる。
13歳のわたしの馬鹿な話も、17歳のわたしの死にそうな話も聞いてくれた友人たちはわたし以外はだいたい同じ大学に通っているのだけれど、彼女たちもあたらしい環境でそれぞれにちがう道を勢いよく進んでいる。

ときどき会って話をすると、やっぱり彼女たちはわたしのことをよく知っていて、わたしも彼女たちのことをよく知っているから、ずっとずっと一緒にいたような、離れていた時間なんてないような気がする。
ああわたしたち大きくなってしまったねぇ、でもやっぱり一緒にいると楽しいねぇなんて言いながら近況報告をして、げらげら笑って。そんな時間はあっという間に終わってしまうけれど、きらきらしていて、爪くらいの大きさのちいさなころころした宝石みたいだと思う。

いまではもうひとつひとつをはっきり思い出すことができないようなちいさな宝石をたくさんたくさん一緒に集めたから、彼女たちと過ごす時間はあんなにたいせつな愛おしい時間になっているんじゃないだろうか。宝石箱をながめているみたいな。

時間は巻き戻せないし、鮮やかに目の前に存在していた世界は刻一刻と奥行きのない過去に姿を変えていく。
わたしだって、わかっている。
だから、彼女たちと宝石を確かめあえる時間はたいせつなのだ。

けれど、宝石は、そこにたしかにあったことを覚えていても、どんなにわたしが愛おしく感じていても、もう触れられないこともある。宝石箱の鍵は、わたし一人では開けられないからだ。

わたしは、たぶん、たいせつな友達の過去に閉じこめられてしまった。わたしはまだまだいっしょにいろんなことをしたかったけれど。
そういうこともある。わかっている。
だから、さようならを言わせてほしい。もしもこれを見ていたら、わたしの勘違いだったら、そう教えてほしい。正解だったら、それでいいから。

ねえ、おぼえていますか。
いっしょにいろんな話をして、いろんなところに行って、楽しいことも、人には言えないような危ないことも、たくさんあったよね。
きみにとってはいろあせた、たとえ思い出したくない何かになってしまったとしても、わたしにはずっとたいせつにしておきたい宝物です。
だから、ありがとうね。さようなら。

ひさしぶりに文章を書いたら、よくわからなくなってしまったな。おやすみなさい。

魔法使いになれるとき

ため息をつくと幸せが逃げてしまうと言うから、ため息はティーカップに注いだ紅茶を冷ます息と一緒に湯気に溶かしてしまうことにして、今日はたのしい話をしましょう。

そうね、たとえばお菓子のおはなし。

わたしは甘いものがとてもとても好きで、からいものと、すっぱいものと、苦いものと甘いものとを並べられたらおそらく甘いものを手にとる。
すっぱいものも苦いものも嫌いではなくて、からいものもからすぎなければ好ましいけれど、どれか一つだけ選んでいいよ、と言われたらそのときはきっと甘いものを選ぶ。

最近よく考えているのは、お砂糖と小麦粉をたっぷり使った洋菓子のこと。
雪のような白いアイシングの上にあざやかなピスタチオがぱらぱら乗ったウィークエンドシトロンとか(わたしの好物)、こまかーい装飾が表面にほどこされたアイシングクッキーとか、洋酒が効いていて口に運ぶたびにフルーツがこぼれるようなパウンドケーキとか、そんな感じ。

お菓子は食べるのも好きだけれど、つくっている時間のほうが好きかもしれない。
できあがるお菓子のこととか、食べてくれるひとのことだけを考えていられるから。手を動かしながら次の工程を考えて準備をしていたら、いつも気にしているような余計なことはぜんぶ考えなくてすむし、ほかのことで悩む余裕なんてない。

型に注いだり、オーブンペーパーのうえに絞ったりした生地を予熱の済んだ熱いオーブンに入れたら、そわそわしてリビングとキッチンを行ったりきたりしながらできあがりを待つ。
小麦の焼ける甘い香りがふわりと漂ってくるころになると待ち遠しくて、10分くらいずっとオーブンの中を眺めてしまうこともある。

わたしは料理はあまり得意ではないけれど、お菓子作りはとても好きだ。レシピの手順と分量をしっかり守って、使うオーブンのくせをちゃんと把握していればレシピが間違っていない限りおいしいお菓子がたしかにできあがる。

ああ、お菓子を作りたくなってきた。

そらのひかりは扉

ひとりで家の近くの映画館でレイトショーを観て(と言っても終演時間はそこまで遅くなかったけど)、帰りがけにコンビニに寄って頼まれた牛乳、飲みたかったメッツコーラ、おみやげの筒にはいったポテトチップスを買った。

昼間はずいぶん暑かったのに、夜は裏地をつけたスプリングコートを羽織ってもまだすこし寒いのね、なんて思いながら歩いて帰った。ずいぶん夜がふけている気がしたけれど、友達とお夕飯を食べてから帰るときと同じくらいの時間で、きっと部活をはじめたら練習終わりはもっと遅くなる。
いまなら、お酒を買えるかも。悪いわたしがささやいた。おりこうさんなわたしはコンビニにはもう寄ってしまったし、万が一ばれたらお店にずいぶんな迷惑がかかるのを知っているから、悪い誘いに立ち止まることなくすたすたと歩き続けた。

マンションのエンドランスを抜けて、部屋へ向かって外廊下を進む。
静かな廊下を歩きながら、ふっと外を眺めたら、おおきな3つの光が点滅しながらこちらの方角へ飛んでくるのが見えた。

UFO?
そんなわけないか。
わたしはいつだって珍しいものがすきで、怪奇現象を心のどこかで待ちわびている。だから、ちょっとふしぎなものに出会ったらすぐにいつかどこかで読んだような物語に変換しようとする。
けれど、SFはサイエンスフィクションの略称だってことも知っているし、フィクションは現実にはありえないことが書かれるからフィクションとして成立するということも知っている。もちろん、飛行機の光は思っているより明るく、大きく見えることもあるってことだって。世の中のほとんどは理屈で説明できることばかりだってことも、たぶん知っている。
21世紀は科学の時代で、こうしてとつぜん思い立って書いた文章をカジュアルに全世界に公開できるのも、たとえ1万キロ離れていたってコンマ数秒くらいのラグだけで好きなひとの声を聞けるのもそんな時代の科学の進歩のおかげだ。

でも、でも。
わたしは、数学がわからない。算数だってちょっと危ないし、化学や物理は極端なミクロの話もマクロの話も、聞いていたらだんだん怖くなって、じぶんの視界の枠がぐらつくような、重力がわたしを地面に引きつけてくれなくなってしまったような、ふわふわした気持ち悪さに包まれてしまう。

きれいなことばを並べるくらいしか、インクが染みついた紙の束に飛び込んでたぷたぷと泳ぐくらいしか能がないのなら、すこしくらい偉大な科学のことを忘れて、空を滑るおおきな光をUFOだと信じてもいいんじゃないかな。

わたしの世界は思ったよりずっと狭くて、ときどき息がつまりそうになってしまうから、真っ黒な空の白い光を見つめながら、だれも見たことのない、会ったことのないふしぎな人たちに思いをはせて、おおきく深呼吸をしてもいいんじゃないかな。

今夜もよく眠れますように。

ひとすじの

新生活がはじまって14日ほど経った。
平気で2,3日家の外に一歩も出なかったような生活から一転、週6日ペースで夜は外食、帰りははやくて21時、みたいな全力疾走で坂を走りおりるような余裕も安定感もない日々をすごしている。


正直、ともだちはまだいない。
あいさつするような顔見知りとか、たくさんの人たちの中でひとりで心細いときに一緒にいるような知人はできた。LINEの友だちだって40人くらいは増えたと思う。
けれど、ひとりの時間を減らしてでも一緒にいたいような、ふとなにかを目にしたときに「ああ、あの子に伝えなくちゃ」なんて思い出すような、そういう誰かは現れない。
なんとなく、屈託なく笑う明るい子たちには、世界への根ざし方が違いすぎる気がして、気おくれしてしまう。だから、きっと自分から壁を作っているのだと思う。

わたしは本を読むこととか考えごとをすることが好きで、ひとりの時間の使い方に困ることはないし、ひとりでいると比較的楽しく過ごすことができる(とすくなくともわたし自身は思っている)。
よく知らない子と四六時中一緒にいて、話題もことばもおそるおそる選んでぎこちない会話をするよりは、ひとりでいることを選びたい。
けれど、同じ文脈を有するともだちといる時間はひとりの時間よりずっと視野が広くて刺激的で、たのしいものだということも知っている。
わたしにとって"誰か"と過ごすことはつまらないものでもあり、たのしいことでもあるから、積極的にひとに関わろうとしないのにさみしがりな一匹狼ができあがってしまう。


だれかがわたしに好意を持ってくれていてもわたし自身がその人に興味を持てないと関わらないようなともだちの選別を、覚えていないようなちいさいころからしてきたらしく、おそらくいまさらどうすれば変われるというものでもない。でも、なんとなくもやもやしつづけている。

お風呂あがりに濡れた髪を乾かしながら黒髪のすきまにのぞく金のメッシュを見て、ああ、ひとすじの光をわたしは探しているんだなあとふと思った。

ぶ厚い雲をやぶって差し込む、まばゆくてまっすぐ見られないような、手を伸ばさざるをえないようなきらめき。
待っているだけではなにも変わらないし、しっかり顔を上に向けて探さないときっと見つからないけれど、自分がくるくる走っていてもどうにもならないこともたぶんあるから。