雪舟えま『プラトニック・プラネッツ』
わたしは冬生まれで汗っかきなので基本的に冬が大好きで、暑いのはとても苦手だ。
今年の夏は特に暑くて着る服もなくてうんざりしていたところ、今日は起きた瞬間に空気が秋になっていることを確信した涼しい晴天だったので『死をデザインする』なんて本を読みながら来るべき死に備えて鬱屈と考えごとをし続けるのはあまりにももったいないと思いストックしていた未読の小説を手に取った。
読み始めた雪舟えまの『プラトニック・プラネッツ』は、大学の図書館の入り口にピックアップ書籍としておいてあったところメタリックな装丁がたいへん可愛らしかったのでとりあえず借りてみた100%ジャケ借りの本だった。
(もしやと思っていま確認したところ、案の定装丁は名久井直子さんだった。わたしがジャケ借り/買いする本は8割がた名久井直子さんが手がけたものである)
中高生の頃はいわゆるエンタメ文芸に傾倒していたが最近はもっぱら美術の本や現代詩を読んでいたため、知らない作家の聞いたことがない本を読むのは本当に久しぶりだった。
そして、こんなに作品世界に没入して夢中で読み続けられる小説に出会ったのも久しぶりだった。
舞台は(おそらく)すこし未来の東京。
社会人5年目、歌が得意な二十四軒すわのと、彼女と交際を6年間続け同棲中の漫画家志望・住吉休之助のそれぞれの前進が描かれる。
出てくるアイテムや彼らの住居は現代と比べて大きく変わっているわけではないが、どこか不思議でポップな近未来感がただよう。
森見登美彦や三崎亜記など、すこしだけ現実と違う日本を描く和風マジックリアリズムが好きなわたしはすぐにその世界観に魅了された。
ものすごく難しいわけでも奇抜なわけでもないが簡単には思いつかないこと(パルプのフンをするロボットウサギや飛行船に乗る葬儀屋)や、登場人物たちの由来も国籍もわからない名前からはなんとなく自分が詩で書こうとしている透明な浮遊感が感じられて心地が良かったのだ。
自律的な言葉の働きに委ねたような、あまりに詩の世界に近いモチーフの組み合わせが繰り返されるため途中で気になって著者のプロフィールを調べたところ歌人としてデビューした方だったので納得と同時に運命を感じざるを得ない。
漢字の閉じ開きにこだわりがあるので、「○○的」の「的」をすべて「てき」と表記するのだけはどうしてもいただけなかったが、男と女であれば恋愛に発展しなくてはいけない、恋愛を避けては特別に大切な関係にはなり得ないというわたしが感じていた窮屈さをやさしく取り払ってくれた、良い作品だった。
キスしたくなくても、性行為に及びたいとは全く思わなくてもとびきり大切に思える異性がいても良いのではないだろうか。
同性であればいくつも存在する親愛の情の示し方が、対象が異性になったとたんに性行為とそれに連なるふれあいに限定されてしまうのはあまりにももったいない。
異性との関わりかたに疑問を抱いていた、詩歌の好きなわたしが、著者のプロフィールと作品の内容をいっさい知らない状態でたまたまこの本を手にとって読んだというのは出来すぎではないか。
本は読むべきときに読むべき人のところに自律的にやってくるのだとわたしは信じている。
手元に置いておきたい本なので後日自分で購入しようと思う。
ゆめのように愛おしい
永遠に十代な気がしていたわたしたちにも、あたりまえだけど時間は平等に押し寄せて、気がつくと二十歳を迎える年になっていた。
親友が二十歳になった今日、十九歳のわたしはスーツを着て東海道線に乗りながらこの文章を書いている。
いつのまにか正装はブレザーとプリーツスカートからスーツになって、汗をかきながらわたしは肌色のストッキングを履いて7cmのハイヒールでスタスタ歩いている。顔にも肌色の膜を張ってあたりまえのマナーとしてまぶたの上をきらきらさせたりしている。
あたりまえのことが、あたりまえのように苦しい。
スーツが嫌いとか、メイクが苦手とか、そういう話ではなくて。
今日二十歳になったあの子を昼休みに教室まで迎えに行って二人で図書館の奥に座ってお裁縫の本やきれいなデザインの本を眺める時間は永遠だと思っていた。
わたしたちはずっと特別なままだと思っていた。
生徒専用の図書館には卒業生だと言えば入れてもらえることはできても、もう主たる利用者として利用することはできない。あの日のあの子のプリーツスカートのすそにはもう届かない。
書きながら、途方に暮れる。
わたしは別にいまを愛していないわけではないし、あの日がなにもかも楽しかったわけではない。
大学生になって、自分の世界も周りの世界も大きく広がったいまのほうがずっとずっと生きやすいはずなのに、それでも振り返るとこんなにあの日は愛おしい。
わたしはスーツだって好きだし、メイクだってそれなりに楽しんでいる。いまだって何年か後に振り返れば間違いなくものすごく煌めいていて愛おしい日々であるはず。
だから、いまの自分を愛せるように、昔の自分を慈しめるように、名実ともに「大人」になりつつあるあの子をわたしはこれからも見ていたいし、あの子にわたしを見ていてほしい。
「あの日は楽しかったね、わたしたちは輝いていたね」というだけじゃなくて、いまの苦しさや楽しさをこれからも共有したい。
いまのわたしたちにとってあたりまえの苦しさを、これからのわたしたちのためにいま標本にしておきたい。
なかなか会えなくても、身を置く環境が全く違っていても、わたしたちにはあの日があるので。
吉祥寺・ゆりあぺむぺる
久しぶりの友人に会いにめずらしく吉祥寺まで行ってきたので、すかさずずっと訪れたかったゆりあぺむぺるへ。
赤いクリームソーダのイメージが強かったが、メニューには意外にも赤(ザクロ味)のほかにもアプリコットオレンジとバイオレット、期間限定のラピスラズリがあった。
何色にするか迷ったものの、友人がラピスラズリを選んだのでわたしは定番のザクロにした。
軸が太めでガラスの厚いずんぐりとしたワイングラスは手作りのようなあたたかさが感じられた。写真には写らなかったが裏側にはラピスラズリのような深い青の班が入っていて涼しげ。
アイスクリームは生クリームのようなかなりなめらかな触感で柔らかく、しゃりしゃり感はほぼゼロ。アイス自体が美味しくてついついたくさん食べてしまうタイプ。ライオンとかgionと同じ系列かな……。
ソーダは底にシロップだまりがあり、グラデーションになっているのでスプーンで混ぜるとシロップが陽炎のようにゆらゆらしながらソーダに混ざっていくのが見えてとても美しかった。
味は、ザクロではないかもしれない。そもそもザクロはぷちぷちとした触感と渋みしか印象になく、味を明確に思い出すことができないので説得力にかけるが、少なくともいちごの味はしなかった。ピーチに近い、柔らかな甘みがあった。
友人の頼んだラピスラズリを一口もらったところ、そちらはレモンのような、明らかに違う味がしたので色によって味が違うことは間違いないと思う、見た目に味が左右されているとかそういうレベルには収まらない香りの違いがあった(すくなくともわたしには)
凝った細工の施された入り口のドアや木の暖かい雰囲気がある店内の写真をみて勝手に井の頭公園沿いの静かなエリアにあると思っていたが、駅からすぐのチェーン店や居酒屋の林立するあたりに慎ましげにすてきな空気を発していて入る前からグッときた。
たしか名前の由来も宮沢賢治だったと記憶しているが、銀河鉄道の夜の手書き原稿が掛けられていたり、マッチには猫の描かれていたりと宮沢賢治のどこか浮世離れした雰囲気をたしかに受け継いでいて、小川未明や宮沢賢治が好きなわたしはとても居心地が良かった。
マシュマロ⇔恋人の肌
レポートを書いて疲れて眠ろうとしている深夜2時(もうすぐ3時になる)にふとマシュマロが食べたくなって、あるわけもないのに冷蔵庫の扉を開けながらとつぜんandymoriのサンセットクルージングの「初恋の香りに誘われて死にたくなる夕凪」という一節をおもいだしてものすごく死にたくなった。
なぜだか理由は一切わからないがマシュマロはわたしの中では"恋人"(不特定)のアトリビュートだ。
わからない、なぜだかはわからないけど。
肌のやわらかさを想像するからかな、あるいは唇とかキスの甘やかなイメージかもしれない。腕の内側にしわを寄せるとほぼ唇だよ、みたいな感じと同質の。
あるいは、
わが家にはマシュマロ嫌いな母がいるので幼い頃からあまり縁がなくて(それでももらいものとか留学先の別荘で炙って食べたとかナイスな記憶はある)、マシュマロには「ホワイトデーに男の子からもらうもの」というあまずっぱいロマンがあるのかもしれない。
ホワイトデーにその子のことが好きならマシュマロ、ふつうならキャンディ、きらいならクッキーをあげるらしいみたいな何かがなかった?わたしにはあった。
うーん、なんとなくキャンプの情景が広がるのが気持ち悪い。この記憶はなんだ?
時刻は深夜3時を過ぎた、
眠気がこめかみまで降りてきているわたしの自動書記のような文章をブログに捧げる
andymoriを聴きながら
最近は詩とレポートばかり書いているのであまりに両極端
いい塩梅に美しく起承転結のあるブログの文章はもう書けない気がする
表明
リズと青い鳥を観た。
無事、エモーションのかたまりになった。
敬語で書いた記事と常態語で書いた記事が混じるのはこのブログの良くないところであるとは思っているものの、そのときどきで気分が違うんだもの仕方がないよね。
夜ひとりで観に行ってからことば以外の何にも手がつかないので頭の中を雑に記す。
遅効性の毒はゆっくりと全身に回る。毒が抜けるのもゆっくりしていてしかるべき。
リズと青い鳥に関しては、なんなんだあのオープニング!という気持ちでいっぱいだった。
ポニーテールを揺らすな、白い靴下を履くな、下駄箱で靴を脱ぐな階段を登るな!あふれんばかりの高校生活に死んでしまう!死んだ!
わたしの手からこぼれてしまった生活……と言おうと思ったものの、わたしも中学生と高校一年生でそういう生活はそこそこエンジョイしていた。いまから思えば。
女子高生を駆け抜けなかったのでいつまでたっても女子高生への憧れは強い。
あのころは親しい友達が持っているすてきなものはいつだって息が苦しくなっちゃうほどすてきに見えてそれが羨ましくて妬ましくて、そばにいるとあんまりくやしいからもうその子と付き合うのを辞めようと思ってしまうくらいだった。
制服という鎧を脱ぎ捨てた瞬間に失ってしまったものはいくつかあって、羨望のまなざしもきっとそのうちのひとつ。
大学生になったらみんな少しずつ違うのがあたりまえ、いや高校生のときまでみたいに全く同じことをしている(ように思える)人たちが一人もいないから、羨ましいものも見慣れてしまう。
そのうち悔しさや妬ましさともうまく付き合う方法を見つけていて、気がついたら大人に近づいてしまっている。
透けるようなきらめきの粉をむせるほど吸ってしまって、いまは息ができない。
詩を書いてツイッターでたくさんつぶやいて詩を推敲してブログを書いて、それでもなお落ち着かないので仕方なくあかりをつけたままベッドに倒れてラジオを聴く。
映画を観ながらリアルタイムで思ったことをあとでまとめてブログに書いたりしたいけどスマホは開けないし、いつも覚えていようとして結局断片的な記憶しか残らなくてもどかしかった。次回からちいさなノートを持って、その場で殴り書きしておけば忘れないのかもしれない?とすこし思った。不審かな。
持つ者は違う面から見たら持たざる者かもしれないし、逆もまた然り、ということに気がつくのにはたいそうな時間と苦悩が必要。
わたしはいまも納得しきれていない。
ことばを選びたい あなたに選ばれたい
ご無沙汰しています。
おかげさまでこの1年所属しながら苦しみに苦しんでいた某組織でトラブルに見舞われ、きれいに足を洗えそうなわたしです。
始発から2本目の電車に乗ってほとんど休憩する間もなく(少なくとも昼ごはんを食べられるような昼休みは存在しなかった)くるくるばたばたぽーんぽーんと動きまわって23時に帰宅、休めるのは体調不良のときだけというような生活でした。
大切なだれかを遠ざけて、最低限の文化を投げ捨てて、目指すなにかやなりたいだれかが見えないまま必死で走りつづけていた1年はそれでもわたしにとって意味のあることだったと言いたいけれど、ひとの悪意に蹴つまずいてようやく身体を見わたすと傷だらけで。
2週間の長期休暇をもらったときはとにかく安堵の一言につきました。
とりあえずいまは読みたかった本を読んで、きちんと勉強して、気絶するような入眠ではなく穏やかな就寝ができる生活を取り戻そうとしています。
ご縁があって日本現代詩の最先端をゆく方々とお会いすることができたので最近はもっぱら近現代の詩歌を読んでいて、勧められて自分で書いてみたりもしはじめました。
まだほんのすこししか読んでいないし詩の世界に足を踏み入れたばかりのわたしですが、現代詩は"詩"といわれて想像するような仰々しいことばを使って異世界の景色を綴るかゆいものではないのかなと思っています。
Twitterにもちらりと書いたけれど、会話することでは吐き出せない、エッセイにはうまく仕立てられないような、どこから湧き出てくるのかすらもわからないあわい輪郭の感動をちぎったりあつめたりうすく伸ばしたりして言葉という形あるものにする営みのことをわたしは"詩を書く"と呼びたいです。
誰かに届いているのかもわからない、こんなちいさなブログに送り出すことばはほとんど祈りに近いので。
誰にも見つけられない星になれたらと願いながらも、どれだけ叫んでも伝わらない・届かない想いがいつか誰かの心を震わせるんだと歌うandymoriに供えたい文章でした。
屈折率1.33
思えば、もう2年半近くプールに行っていない。
塩素の薬品らしい冷たい緑色をした匂いも、キラキラと白く光る水面も、水中で視界一面に広がる不自然なまでに透きとおった水とパステルカラーの底も、わたしはとても好きだ。
わたしが小学生か中学生のはじめのころに出会って今もときどき読み返す本のひとつに梨屋アリエさんの『プラネタリウム』という短編集がある。
4篇収録されているうちの2番目だっただろうか、幼なじみの彼女がいる先輩に恋をしてしまった女の子が失恋をして、涙でからだを溶かしてできた池に小魚になって飛び込んでしまう話が収録されている。
わたしは、はじめて読んだそのときからずっとずっと彼女が羨ましくて仕方がなかった。
悲しくてかなしくてしかたがないときや、自分にほとほと愛想が尽きたときにじぶんの輪郭を失うことができるなら、しかもあのひんやりとしてとろとろとした水になれるならどんなに幸せだろう!
羨ましい死因ナンバーワンだ。
ちなみに次点はダレン・シャンの空気に粒子のように消えていく死にかたである。
現実には叶わない話であるのはわかっているけれど、それでもわたしは水に浸かることが好きだ。
長風呂で人肌くらいの温度まで冷めたお湯につかっているときの、あのもうすこしで水に溶け出せそうな感覚も嫌いじゃないけれど、やはりつめたい水にざぶんと入って壁を強く蹴って前に進むプールでの感覚には敵わない。
最後に行ったプールは、ニュージーランドの市営のプールだった。わたしが住んでいた街は港町で、海の真上に真水のプールがあった。
ひとりでちょっと出かけてくるからと言って、住んでいた家から4kmほど、徒歩で40分ほどだっただろうか、ヘッドホンで音楽を聴きながらダウンタウンを歩いてそのプールに通っていた。
知っている人にはまず会わないし、そのあとに特別な用事があることもほとんどなかったから誰の目も、時間も気にすることなくひとりで黙々と泳いでいた。
きっと、日本では同じようには行かない。
丸一日好きなことができる日なんていまはもうほとんど作れないし、そもそも家の近くのプールはほとんどジムの契約が必要だったり1時間ごとの値段だったりするもの。
ニュージーランドのプールの近くの写真を探していて、すこし懐かしくなるなど!奥の白くて四角い海に張り出している建物がプール。
海外に出たら、いま感じている息苦しさは消えるのかしら!