平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

恥ずかしい思い出といまのわたし


ツイッターをしたり、誰かの書いたものを読んだり、ネットの人が集まるところに関わっているとネットスラングに触れることは避けられない。
わたしだってそれなりに、あまりきれいでない言葉も使うし、言語は常に更新され続けていくものだと思っているから、すべてを若者の下品な言葉として片づけてしまうのは、時間は流れて時代は変わっていくものだという現実から目を背けているような気がして、正直うしろめたい。

けれど、『黒歴史』という言葉だけはどうしても苦手だ。
わたしは、斜にかまえてひねくれかけていたわたしを忘れたくないし、どれだけみっともなくてもなかったことにはしたくない。

たとえば、5年先のわたしからすれば、いまのわたしはオタクに片足突っ込んでいるくせに知的なサブカル教養娘を気取ってブログを書いてふんぞりかえるただの阿呆で、記憶から消し去ってしまいたいくらいの痛い存在になってるかもしれない。
いまのわたしが、おかしな名前のバンドのひとに恋をして夢にまで出てくるのに、彼と会えない、名前さえ知ってもらえない悲しみとか胸の痛みを嘆いていた3年前のわたしの始末にこまっているのと同じように。

3年前までのわたしは本気で世界の終わりに恋をしていたし、いまのわたしは疑うこともなくこういった類のアウトプットは自分に必要だとして、時間をかけてこのブログを書いている。

なにかに向かっていく気持ちとそこにかける熱量に、間違いと浪費は存在するのか、16歳のわたしにはまだわからない。

けれど、どれだけ間違ったことを信じていたって、惨めで思い出したくもないようなおしまいを迎えたとしたって、その滑稽な自分はたしかにむかしの自分で、過去はゆらぐことがない。
わたし自身がそうした自分の軌跡を、黒歴史という一言で否定してしまったらその頃のわたしがかわいそうだ。
どんなに不格好でもふらついていても、その道をあゆんだという事実は残していたい。「長い長い旅のことは足跡だけが知っている」ってわたしの好きな歌にあるけれど、逆に足跡さえ消してしまえば過去のわたしをしるすものはない。

だからいまはその足跡をただただ記録として余すことなくとっておきたい。
いつか、わたしのうしろに積み重なった失敗も、努力のあとも、すべてを抱きしめて、「この傷や間違いがあったからこそいまのわたしがいるの!」と笑うことができますように。