平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

大切なクレヨンのかけら

わたしが本を読みはじめたのは6歳のときだった。
小学校に入るすこし前、母がとつぜん古本屋さんで50冊くらいごそっと本を買ってきた。母からわたしへの、入学祝いだったらしい。

なんの前ぶれもなくわたしのお部屋にやってきたそのたくさんの本は、福永令三さんのクレヨン王国シリーズだった。

1巻目、『クレヨン王国の十二ヶ月』を手にとって読みはじめる。
小学生のゆかちゃんがとびこんでいく、色とりどりのクレヨンたちの街。
わがままだけれどキュートなシルバー王妃と、やさしいけれどすこし不思議な登場人物たち。
あたたかくて魅力的な物語に夢中になるのに時間はかからなかった。


わたし自身はちっとも覚えていないのだけれど、小さいころのわたしは本がきらいだったらしい。
寝る前に読みきかせをしてもらうのも嫌で、どうしてこんなに本に抵抗があるのか母をなやませるほどだったという。もっとも、その悩みは杞憂に終わったわけだけれど。

ゆかちゃんのあとを追ってクレヨン王国にすいこまれてしまったわたしは、しばらくとどまるところを知らなかった。

はじめての遠足のバスに揺られて、吐き気をこらえながら読んだパトロール隊長。
読むのがはやすぎて母に驚かれるのが恥ずかしくて、表紙を裏返して上下さかさまのまま読んだ白いなぎさ。
ベッドで読み終わって続きにどきどきしながら母に感想を伝えたら、寝ぼけた母が森三中の話をしはじめた月のたまご

わたしの夢の王国には、読んでも読んでもあたらしい冒険が待っていていつもわくわくしていたし、主人公が危険におちいるシーンでは一緒に手に汗を握った。
純粋でステキなやさしい物語が見渡すかぎり広がっていたあの頃のときめきは、いま読みかえしても戻ってこない。わたしは大きくなりすぎてしまった。


このあいだふっと思い出して、中学二年生まで住んでいた、祖父母の家のわたしの部屋にクレヨン王国をとりに行った。
数年前までわたしのものであふれていた部屋は、ベッドの向かい側の壁が2メートルほどの本棚で埋まっているけれど、その本棚もこの数年でずいぶん中身が変わった。

わたしの大切な希望の国のお話は、一冊も見つからなかった。

どうやら、引っ越すすこし前、大人の本を読みはじめたわたしは児童書のつまった自室の本棚が照れくさくなって処分してしまったようだった。

50冊とちょっとの青いファンシーな背表紙の本は子どもっぽくてはずかしかったから、もう読まないと思った数十冊は箱につめて、あたらしい誰かに読んでもらおうとさようならしたことは覚えている。

だけど、はじまりの一冊、『クレヨン王国の十二ヶ月』といちばん好きだった『クレヨン王国 十二妖怪の結婚式』と、おきにいりのあと数冊は確かに残しておいたはずだったのだ。

信じられなくてなんどもなんども本棚を探したけれど、一冊も出てくることはなかった。

もう一度、あたらしい本を買おうか。ぴかぴかの新品を買うより、ほかのだれかが読んだ古本のほうがいいだろうか。

悩んだけれど、どちらもしっくりこなくて結局そのまま手に取っていない。あたらしいものを買ってもきれいなままで読んでしまうだろうし、ふるい本を買ってもわたしがドキドキしながらめくったあのページたちが戻ってくるわけじゃない。

児童書は大人が読んでも楽しいものだけれど、こどもの胸をときめかせるために生まれた彼らは本来のお客さまであるこどもに読んでもらわないと寂しいだろう。

わたしは本を読むのが好きだし、本のなかに広がる世界に触れられない人生は想像がつかない。でも、誰もがそうとは限らないし将来生まれるはずのわたしのこどもが本読みになるかはわからない。

まだ存在もしていない彼あるいは彼女。ひとつだけわたしのわがままを許してほしい。どうか、クレヨン王国を手に取ってください。

いまもわたしの胸に残る、愛しいクレヨンのかけらたちは、それですこし救われると思うから。