漂流するもの
詩とか短歌とか、街で見るちょっと澄ましたキャッチコピーとか、短い文章が好きだ。
何百字何千字って長い長い文章が続く小説も好きなんだけれど、それとはすこし違う方向だ。
たとえば短歌。
五七五七七、たった三十一音のなかに恋だの愛だのこの世の儚さだの、人が生きているうちに感じられるあらゆる感情とかメッセージを封じこめる。
詩は三十一音より長いけど、それでもすかすかのたった数ページだ。
その行間には、きっとすごーく大きな紙が真っ黒に埋まってしまうくらいの気持ちが含まれている。
だから、詩歌はまるっこい。
大抵は四角い紙の上とか四角いモニタの中に四角い文字で存在しているけれど、見えている文章だけでは収まりきらなくて、ページを開くとふわふわと漂う。
そのぼんやりとしか見えない意味とか気持ちたちをわかりやすく、触れやすくするために気まじめな大人たちは解説をしたり考察をするんだと思うけど、わたしにはそんな教養がないからとりあえず声に出してみたくなる。
お風呂の中でお湯に浸かって、ページを開いて暴れだした文字たちを自分の声に乗せてみる。
探り探り抑揚をつけて、そっと息継ぎをする。できるだけ、透き通った綺麗な声で言葉をかたちにする。
わたしのからだを通って空気の振動になった詩や歌は、すこし身近なものになる。けれどだんだん、わたしの不器用な声だけでは物足りなくなってしまう。
もっと綺麗な声で、たくさんの気持ちを込めて文章を読むことができたらいいのに、といつも思う。
文章を書くのは見たこととか思ったことをどれだけ豊かな言葉で表すことができるかが大事。
一方、詩や歌は表すことができないものもすべてそのままに受け止めて、それらを閉じ込めたままにどれだけ綺麗に言葉を削ることができるのかが重要なんじゃないだろうか。
詩人や歌人が羨ましい。