平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

青い春ってなに?

最近、10歳とか20歳離れた大人の方とお会いすることがすごく多くて、その度に自分自身の若さを痛いほど感じる。

経験の少なさからくる至らなさを悔しく思うことももちろんあるんだけれど、若さってそれだけで武器で強みで、アイデンティティになるのだ。


わたしは昔から周りに子どもが全然いなくて、親戚の集まりなんていうとわたしの次に若いのが母ということも珍しくなかった。

だから小学校に入る前からなんとなく敬語が使えたし、小学校ではじめて同年代の子たちに囲まれて、学校という環境に圧倒された。
いつも大人が周りにいたから大人からみる「子どもらしい」子どもではあったけど、子どもだけで構成される、中学高校のあの独特なコミュニティにはあまり上手くなじめなかった。


どこにいても「歳のわりにしっかりした」とか「おとなっぽい」なんて言われる性格だけど、それらは全て子どもであるからこその特徴だ。大人っぽい大人は普通の大人である。

わたしは控えめに言っても運動は得意ではないし、勉強はほどほどだ。
おしゃれなことは好きだけど、実は手先もそう器用ではない。
絵を描くのも歌を歌うのも楽器を弾くのも、練習すればすこしはできるかなというくらいで、誇れるほどのものなんかじゃない。
英語は留学して話せるようになったけれど、それでも文法事項は弱いしTOEFLなんて海外の大学に提出したら鼻で笑われるようなスコアだった。

おとなっぽいことが取り柄の器用貧乏なわたしは、大人になったら何が残るんだろう。若さという武器を失ったときに、糧にできるなにかがあるのだろうか。すこし不安になる。

高校でドロップアウトしている時点で社会性はないし、規則的な生活をするのはとても苦手だ。わりとしっかり社会に不適合。

「将来の夢から逆算して行きたい大学と学部を決めよう」なんて進路を決めるときのあれこれでよく見る気がするけど、いま何ができるかすらわかってないのに「(現実的に考えて)なりたい仕事」なんかわかるか阿呆と思う。

芥川龍之介も笑っちゃうくらいのぼんやりとした不安を抱えて悩む姿も、はたから見たら微笑ましいのだろうと思うけれど、すり減っていく若さをお供にわたしはどこに向かっていけばいいんだろうなあ。

大人になったわたし、これを読んでいたらお便りをもらえると嬉しい。よろしく。