平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

表明

リズと青い鳥を観た。
無事、エモーションのかたまりになった。

敬語で書いた記事と常態語で書いた記事が混じるのはこのブログの良くないところであるとは思っているものの、そのときどきで気分が違うんだもの仕方がないよね。

夜ひとりで観に行ってからことば以外の何にも手がつかないので頭の中を雑に記す。
遅効性の毒はゆっくりと全身に回る。毒が抜けるのもゆっくりしていてしかるべき。

リズと青い鳥に関しては、なんなんだあのオープニング!という気持ちでいっぱいだった。
ポニーテールを揺らすな、白い靴下を履くな、下駄箱で靴を脱ぐな階段を登るな!あふれんばかりの高校生活に死んでしまう!死んだ!

わたしの手からこぼれてしまった生活……と言おうと思ったものの、わたしも中学生と高校一年生でそういう生活はそこそこエンジョイしていた。いまから思えば。
女子高生を駆け抜けなかったのでいつまでたっても女子高生への憧れは強い。

あのころは親しい友達が持っているすてきなものはいつだって息が苦しくなっちゃうほどすてきに見えてそれが羨ましくて妬ましくて、そばにいるとあんまりくやしいからもうその子と付き合うのを辞めようと思ってしまうくらいだった。
制服という鎧を脱ぎ捨てた瞬間に失ってしまったものはいくつかあって、羨望のまなざしもきっとそのうちのひとつ。
大学生になったらみんな少しずつ違うのがあたりまえ、いや高校生のときまでみたいに全く同じことをしている(ように思える)人たちが一人もいないから、羨ましいものも見慣れてしまう。
そのうち悔しさや妬ましさともうまく付き合う方法を見つけていて、気がついたら大人に近づいてしまっている。

透けるようなきらめきの粉をむせるほど吸ってしまって、いまは息ができない。

詩を書いてツイッターでたくさんつぶやいて詩を推敲してブログを書いて、それでもなお落ち着かないので仕方なくあかりをつけたままベッドに倒れてラジオを聴く。

映画を観ながらリアルタイムで思ったことをあとでまとめてブログに書いたりしたいけどスマホは開けないし、いつも覚えていようとして結局断片的な記憶しか残らなくてもどかしかった。次回からちいさなノートを持って、その場で殴り書きしておけば忘れないのかもしれない?とすこし思った。不審かな。

持つ者は違う面から見たら持たざる者かもしれないし、逆もまた然り、ということに気がつくのにはたいそうな時間と苦悩が必要。
わたしはいまも納得しきれていない。