ゆめのように愛おしい
永遠に十代な気がしていたわたしたちにも、あたりまえだけど時間は平等に押し寄せて、気がつくと二十歳を迎える年になっていた。
親友が二十歳になった今日、十九歳のわたしはスーツを着て東海道線に乗りながらこの文章を書いている。
いつのまにか正装はブレザーとプリーツスカートからスーツになって、汗をかきながらわたしは肌色のストッキングを履いて7cmのハイヒールでスタスタ歩いている。顔にも肌色の膜を張ってあたりまえのマナーとしてまぶたの上をきらきらさせたりしている。
あたりまえのことが、あたりまえのように苦しい。
スーツが嫌いとか、メイクが苦手とか、そういう話ではなくて。
今日二十歳になったあの子を昼休みに教室まで迎えに行って二人で図書館の奥に座ってお裁縫の本やきれいなデザインの本を眺める時間は永遠だと思っていた。
わたしたちはずっと特別なままだと思っていた。
生徒専用の図書館には卒業生だと言えば入れてもらえることはできても、もう主たる利用者として利用することはできない。あの日のあの子のプリーツスカートのすそにはもう届かない。
書きながら、途方に暮れる。
わたしは別にいまを愛していないわけではないし、あの日がなにもかも楽しかったわけではない。
大学生になって、自分の世界も周りの世界も大きく広がったいまのほうがずっとずっと生きやすいはずなのに、それでも振り返るとこんなにあの日は愛おしい。
わたしはスーツだって好きだし、メイクだってそれなりに楽しんでいる。いまだって何年か後に振り返れば間違いなくものすごく煌めいていて愛おしい日々であるはず。
だから、いまの自分を愛せるように、昔の自分を慈しめるように、名実ともに「大人」になりつつあるあの子をわたしはこれからも見ていたいし、あの子にわたしを見ていてほしい。
「あの日は楽しかったね、わたしたちは輝いていたね」というだけじゃなくて、いまの苦しさや楽しさをこれからも共有したい。
いまのわたしたちにとってあたりまえの苦しさを、これからのわたしたちのためにいま標本にしておきたい。
なかなか会えなくても、身を置く環境が全く違っていても、わたしたちにはあの日があるので。