平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

ドアをノックするのは誰だ?


近ごろ、睡眠時間がひどく短い。

気がついたころには睡眠が下手で、眠れないのに一度眠りはじめると起きられないので専門の病院に通院していたほどだったが、最近はなぜか深夜1時から3時くらいにすんなりと眠り、朝5時から7時くらいのあいだに自然に目が覚める。
動けなくなるほどのめまいや吐き気もない。


昨日は強いお酒を楽しそうに飲む友人たちに囲まれつられて強いお酒をいろいろ飲んで終電で帰宅したのに、5時半になぜか目が覚めた。

つい先日まで終電帰りなんてした日には翌日の午前中は寝潰して、むくんだ顔を大きな眼鏡で覆い隠して出かけていたのに。


最近、毎日きちんとスキンケアをして化粧をしている。
(さまざまな意味で)気にかけていた何人かの男への興味も急速に失せた。
散らかっていた部屋がモデルルームのように綺麗になった。

「どれだけ変わろうとしてもあなたは変われないよ」と、今後の人生で二度と会わないであろう人間(たち)を呪っていたわたしが、自分自身でも驚くほど変わっていっていることを感じる。


肉体の細胞は日々入れ替わり、90日ほどで総とっかえされていると、わたしは信じていなかった。
たとえ細胞の交換が行われていようとも肉体には呼吸の跡が残り、ひとの生きざまはたしかにからだに刻まれて決して消えることはないのだと思っていた。


案外、そうでもないのかもしれない。

いや、消えることはなくても、褪せていくことはあるのだろう、そういう気持ちかもしれない、良い意味でも悪い意味でも。



時刻は7時半になろうとしている。アルコールが抜けて、快適な朝に迎えられる準備が整いつつある。


昨年わたしが履修していた授業を春学期だけ取っていた人と、一昨年取っていた人となぜかこの夏仲良くなった。

春学期だけ取っていた人と一昨年取っていた人はたまたま同じマンションの同じ階の1部屋隔てたところに住んでいて、彼らの最寄駅はわたしの住んでいるところから電車で20分もかからないので、ふらっと飲みに行って家に上がってわたしの終電の時間まで音楽や詩などの話をする。


昨日は彼らの家の近くにあるあやしげなエスニックバーにごはんを食べに行ったら目つきの鋭い猫がいて、自家製のチャイのお酒を飲みながらよくわからないエスニック料理を3人でつついた。猫はなんとなくエジプトから来たような風貌をしていた。

東郷青児の話をしながらお酒のグラスを開け、フィルムカメラヤフオクで競り落としたらメニューにセージ茶があることに気がついたので、セージ茶と、ついでにギムネマ茶という謎のお茶を頼んだ。

ターコイズ色の湯呑みが3つととちいさな黒い鉄の急須が2つやってきて、3人で大盛りのグリーンカレーを食べながら飲んだ。

「3人で詩の交換日記をしようよ」と誰からともなく言い出して、わたしたち3人の名前はギムネマ・セージになった。東郷青児の話をちょうどしていて、セージ茶のセージも人らしい名前だね、と話していたから。


あたらしい名前、あたらしい生息時間、あたらしいわたし。
真新しさに囲まれているいまがすごく楽しくて、どうかこのままずっと続けばいいのにと祈ってしまう。
自己研鑽と祈りを欠かさない季節にしたいと、強く願う。