平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

正月に痩せる、水を失う

ずっと散文を書けていなかった。

散文というべきか、ここではまあ人に意味を伝える文章といったところの意味合いで、とにかく素直に人前で文章を書くことができなくなっていた。

思い当たる原因はいくつかあって、書いたものがまとまって(いちおう/ごく小規模に)世に出たり、進路が決まったり、すごく好きだった男の子と別れたりしたことが挙げられる。

具体的にどれが原因かはわからないし、ひとつひとつが別々に訪れていたらきっとこれほど筆から遠のくことはなかったのだと思うが、立場や展望の変化がめまぐるしく、自分の身の回りでなにが起こってなにを考えているのかを明らかにすることができなくなっていた。

行き先を見極めようとすればするほど、社会はわたしを必要とする。あるいは、わたしが社会を必要としているのかもしれないけれど、初夏から冬にかけて、自らのうちにこもる余裕はみるみるうちになくなっていった。

4月や5月にはさんざん就職活動への不満をもらしていたが、最終的にはなぜだか誰もが知っているような大きな企業に内定をもらった。
夢に見ていたような仕事、夢に見ていたような待遇で、はたから見れば順風満帆、前途洋洋といったところなのだろうが、当事者としてはそれほどにこにこしていられるわけでもなかった。

どうして自分がいまここにいるのか話すたびにわからなくなるほど周りのレベルは高いし、体力的にも不安がある。人間関係はこちらの身の振りかた次第だろうが、うまくやっていけないと感じてしまった場合の立て直しができるほど器用ではない。
不安だらけだ。不安だらけ、なのだ。

わたしは人と話すのが苦手だ。
さほど親しくない人と話せばうまい返しも相手に興味のあるそぶりもできず、ああ言えばよかった、こう言えばよかったと帰り道からひとり反省会が始まる。

打ち解けた気がする人、打ち解けたい人と話せばあれは言うべきでなかった、あれは完全にスベったと、こちらも帰り道からひとり反省会がはじまる。

文章は、会話とは違う。
ひとりでことばをじっくり選んで、自分の息とおなじリズムで吐き出せる。言いすぎるまえに精査ができて、足りなければつけたしもしやすい。

わたしの主たる戦場でありよりどころでもあった文章だったが、これまでの書きものをまとめたことでその文章でさえも明確にわたし自身をも評価するための材料となり、以前のように書き散らせば人間としての底の浅さが見透かされそうでおそろしかった。

これまで書くことで発散していたものをいかなる代替物を用いて発散していたかというと、代わりのものがなにも見つからず、すこしも発散できていなかった。

発散できずにいた間、不眠症は進み、さほど興味もない男に手を出し、無駄に自己管理のための筋トレや断捨離に時間を注いだ。

もやもやと負のエネルギーを溜めこみつづけた12月下旬、明け方に死にたいとSNSに漏らすほどにまで追い詰められた。
われにかえってから、これでは来年度以降ほんとうに自殺しかねないと感じたため、強制的に思考を解放するためのアウトプットをすることにした。

そのアウトプットは、編み物だ。
大きな毛玉と編み図を買い、棒針編みでもくもくとショールを編むことにした。
これが、信じられないほど精神衛生によく効いた。

初心者なので集中しないと綺麗に編めず、どこまで編んだかも忘れる。
編んでいるあいだは編み目の大きさとパターンだけに意識を注ぎつづける。肉体の疲労を感じたところで手を止めると、律儀に揃った編み目がある。

やればやるだけ上手くなり、やればやるだけ成果が出る。
なんてすばらしい営みだろうか。

不眠症は12歳ごろからの慢性的なもので通院しても一時的に良くなるばかりなので劇的に改善はしないが、それでも編み物を介した瞑想の時間があることで、入眠前にこの先の人生を考え、人生の終わりまで想像が行き着いたときに深い沼に落ちたようにバタバタと苦しむ瞬間はかなり減った。

生き延びる戦略を練るうちに自分の振る舞いひとつひとつに怯えるようになったわたしにとって、ちいさな動作を正しく無数に繰り返す編み物がどれほどの救いになったか。
きっと、これからも救いになりつづけるのだと予感している。

不揃いでも編み上げることがたいせつだし、手遅れになることはあっても間違えたら手直しをすることは可能だ。

丁寧に、もくもくと手を動かして、すこしずつ編み目を重ねる。