平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

漂流するもの

詩とか短歌とか、街で見るちょっと澄ましたキャッチコピーとか、短い文章が好きだ。

何百字何千字って長い長い文章が続く小説も好きなんだけれど、それとはすこし違う方向だ。

たとえば短歌。
五七五七七、たった三十一音のなかに恋だの愛だのこの世の儚さだの、人が生きているうちに感じられるあらゆる感情とかメッセージを封じこめる。

詩は三十一音より長いけど、それでもすかすかのたった数ページだ。
その行間には、きっとすごーく大きな紙が真っ黒に埋まってしまうくらいの気持ちが含まれている。

だから、詩歌はまるっこい。

大抵は四角い紙の上とか四角いモニタの中に四角い文字で存在しているけれど、見えている文章だけでは収まりきらなくて、ページを開くとふわふわと漂う。

そのぼんやりとしか見えない意味とか気持ちたちをわかりやすく、触れやすくするために気まじめな大人たちは解説をしたり考察をするんだと思うけど、わたしにはそんな教養がないからとりあえず声に出してみたくなる。

お風呂の中でお湯に浸かって、ページを開いて暴れだした文字たちを自分の声に乗せてみる。

探り探り抑揚をつけて、そっと息継ぎをする。できるだけ、透き通った綺麗な声で言葉をかたちにする。

わたしのからだを通って空気の振動になった詩や歌は、すこし身近なものになる。けれどだんだん、わたしの不器用な声だけでは物足りなくなってしまう。

もっと綺麗な声で、たくさんの気持ちを込めて文章を読むことができたらいいのに、といつも思う。

文章を書くのは見たこととか思ったことをどれだけ豊かな言葉で表すことができるかが大事。
一方、詩や歌は表すことができないものもすべてそのままに受け止めて、それらを閉じ込めたままにどれだけ綺麗に言葉を削ることができるのかが重要なんじゃないだろうか。

詩人や歌人が羨ましい。

文章を書いてみて思うこと

ブログを書くと、一つの記事がだいたい1500〜2000字になる。
書き終わってからプレビュー表示にさせながら読みなおして句読点の位置をずらしたり、ピンとこない表現や文章を差し替えたりするから所要時間は約90分だ。

一週間ほぼ毎日続けて書いてみてあらためて思ったけれど、文章を書くのは本当に難しい。

1日ぼんやり生活しているだけでも、書きたいことはたくさん見つかる。そこは問題ない。
だけど、一つのネタを提示、展開してきちんと終わらせること。これがなかなか頭を使うことなのだ。

わたしはタイトルとか、キーとなる事象をぼんやり決めて、とりあえず一行目を書いたらざーっと最後まで文を書く。
その場でぱっと思いだしたり思いついたりした場面とかフレーズを並べるから、正直書いてる時は前後のバランスとか難しいことは何にも考えてない。
だから一度手が止まると、次の流れをつかむまでに時間がかかるし推敲は必須だ。

推敲をしても、ときどき前の段落が要領を得ないまま終わって次に進んでしまうし、抜いたら説明が足りないけど残したら残したで話が広がりすぎていまいち収束がつかない扱いづらい文が出てきたりする。

いまも書きながらすごく思っているけれど、書いているとだんだん話が違うほう違うほうにずれていって、最初に提示したテーマの結論が出ない。

これは文章力とか技術というより、性格の問題なのかもしれないとちょっと思う。

「面白いことがあったんだけど、話してたら何言いたいか忘れちゃった☆」みたいなこと、よくありませんか?

文章をひたすら書いたら良くなる云々の以前にちゃんと話せるようになるところから練習しないと直らなかったりするんじゃないか、と若干心配になった。

雑用

いま住んでいる家から祖父母の家までは、だいたい歩いて30分だ。
距離としては3kmくらいのものだが、それなりに急な坂をぐいぐい登らないとたどり着けない。真冬でも汗ばんでしまうくらいのちょっとした運動になるレベルだ。


手が足りなくて困っているからすこし手伝ってほしいと言われて夕方歩いて祖父母の家に向かった。
到着して汗もひかないままに、頼まれてリビングの大きな窓にかけられたカーテンを外す。
身長160cmちょっとのわたしが窓際に置かれた一人掛けのソファのひじかけの部分につま先立ちをしてかろうじて届くくらいの高さだから、確かにまだ若いとはいえ小柄な祖父母がカーテンレールに手をかけようとするのは危険だ。落ちて怪我でもされたらこちらもたまらない。


ひょいとよじのぼって外したカーテンを床に降ろして、新調したオイルヒーターとプリンターが入っていたダンボールの解体に移る。
どちらも自宅で個人事務所を営む祖父の仕事部屋に入れるために買ったもののようだった。プリンターはすでに置いてある業務用のものの半分くらいのサイズではあるが、一般家庭に置くには大きくて、当然梱包も大ぶりだ。

腰のすこし下くらいまで高さのあるダンボールを体重をかけ、時々カッターを使いながら展開図のような平らな状態に戻した。続けてオイルヒーターの箱も四隅を開いてちいさく畳む。

折られてコンパクトになったダンボールのかたまりをいくつかにわけて紐できつく縛って、和室の壁に立てかけたらミッション終了。

ここまでをひとつづきでこなしてようやく、ロング丈の大人しそうなワンピースのまま軍手をはめて足でダンボールをがしがし蹴りとばす自分はちょっと男らしすぎるかもしれない、と気がついた。

だってわたしは箸が転がるだけでもおかしい年頃、花も恥じらう十六歳なのに。

世の中の女の子は髪を巻く方向に一喜一憂して、黒々と瞳をふちどる長いまつげ越しに鏡をみてほほえんでいるんじゃないだろうか。あるいは好きな誰かと微妙な隙間をあけたまま、暗くなった帰り道を歩いちゃううれしはずかし青春の一ページなんてものを謳歌しているのかも。

ものごころついたときに両親は離婚、以降の十数年間はずっと母子家庭、頼れるはずの男手はわたしより小柄な、冷蔵庫にものを取りに立つのすら嫌う祖父のみ。
5年前に女子校なんていうサファリパークに入ってしまったのがわたしの運の尽きだった。


家では母と二人で家具を買ってきて運び入れてトンカチとドライバー片手に組み立て、学校では生徒会の下っ端や弱小英語部の部長になって文化祭前には15キロのダンボールの箱を抱えて運んだり、展示に使うパネルのポールを肩にかついで走り回った。

瓶の蓋だって素手で開けられなければ濡れたタオルをかぶせてでも逆さにしてでもふりまわしてでも開けられなければいけない。

余った仕事があれば率先してやってしまうしゴミが散らかっていれば拾うし伝書鳩代わりに校内をダッシュしたこともあった。

こうして、力仕事だってどんとこいの雑用係ができあがってしまったのだ。


先日、あるイベントでたまたま手が足りなくなってしまったブースのお手伝いをした。
中身の詰まったダンボールを数十センチ移動をさせようすると、男性陣がわたしの手から箱を取りあげて軽々と動かしていった。

「女の子は腰が弱いんだからあんまり無理して重いもの運んじゃダメだよ」

衝撃だった。
わたしは確かに女の子なんていう、力仕事を眺めて空のスーツケースをガラガラ転がすだけでも許される人種の一員だったのだ。


今日、動き回りながらその日のことを思い出してふと思った。
わたし、あと十年もしたら「一人でも生きていけそうだし結婚とかしなくて良さそうだよねー」なんて言われるタイプのひとになってしまうんじゃないだろうか。

重いものを重いから運べないって誰かに任せられる環境が、切実に欲しい。

細かいこととか手間のかかる仕事は引き受けるので、お願いします。

笑う約束

わたしがはじめて自分でお金を貯めて買ったCDは、高橋優の『リアルタイムシンガーソングライター』だった。

シングルもアルバムも出るたびに予約して買って、スピーカーやイヤホンから流れる彼の音楽にたくさんたくさん元気をもらってきた。
そのうち同時期に好きだった世界の終わりに傾いていって追いかけるのはやめてしまったけど、悲しいときや追いつめられたときにCDプレイヤーにセットするのは今でも決まって『リアルタイムシンガーソングライター』だ。


そんな高橋優は、今年の夏にメジャーデビュー5周年を記念してベストをリリースした。
それをひっさげて行われたツアーは、アルバムと同じタイトル『笑う約束』。最後を飾る武道館公演二日間のタイトルは、『笑う武道館』と『約束の武道館』だった。
愚直に笑顔を信じて生きていきたい、なんて歌う高橋優にぴったりだ。

わたしのはじめて行った武道館は、入り口に掲げられた看板に恥じない、たくさんのひとの笑顔で溢れそうな武道館だった。


事前の予習はあえてあまりしていなかった。
おざなりにベストアルバムを聞いて、お気に入りの曲リストをおざなりに更新するよりは、知っている曲が少なくても追いかけていたあの頃のお気に入りを聞けたときのほうが嬉しい気がしたのだ。

指揮者みたいにノリノリで長い弓を振るバイオリン奏者や、明るい緑色のモヒカン頭を目まぐるしく振りながら激しくドラムを打ち鳴らすドラマーの演奏するアップテンポなビートにのせて、明るい歌がつづく前半戦はただただ肩を揺らしてリズムに乗るだけでも楽しかった。

中盤にはいり、最近の曲でも気に入っていた『同じ空の下』を聞いたとき、胸にこみ上げてくるなにかを感じた。

明日がそっぽ向いてても 今日がやるせなくても
この手伸ばして 一歩踏み出して「これだ!」って腹括って決めた
道無き道をどこまでも行こう 何度つまづいても
夢は叶うよ さぁ 歩み続けよう やがて時は満ちてく

人と少し違ったり 少数な方に属したら 蔑まれることも珍しくないよ

でも心配ないよ 腰抜けの戯言
歩みを止めなけりゃ 夢は逃げやしないから

留学から帰ってきて、馴染む間もなく後ろ指を差されて孤立して学校に行けなくなってしまった。
それから周りに散々反対されてキツいことも言われたけれど学校を辞めると決めて、でも大学に行くことを諦めたくなくて勉強を始めた。
そんな近況と重なって、でも未だになんとなく不甲斐ないわたしの背中を押してくれる気がして、彼のがむしゃらな歌声が余計に響いた。

次の曲は、『リアルタイムシンガーソングライター』収録の『靴紐』だった。わたしがつらいときにいつも心の中で口ずさむ一曲だ。彼のストリートライブ時代のはじまりの曲。
スポットライトのなかにぽつんと一人立ち、アコースティックギターをかき鳴らし歌う。

喉元までせり上がってきていたものが溢れて、涙が止まらなくなった。

選んだ道は正しいかな。間違ってばかりいるのかな。いつもいつも不安になるけれど、わたしは前を向いて歩いていくしかないのだ。
この曲を生で聴けてよかった。ライブに来られてよかった。ぐずぐずに泣きながら、がんばろうと心から思えた。

靴紐のあとは、同じようにインディーズ時代からの曲を弾き語りのまま数曲演奏した。そして、再びバンド体制の曲の続く後半へ。多少熱気に圧されて疲れたところはあったけれど、あっという間の時間だった。
本編最後の一曲、『明日はきっといい日になる』を聴きながら本当にいい日になる気がして、自然と口角が上がった。周りと一緒に声を張り上げた。

アンコールの最後に代表曲、『福笑い』の大合唱の余韻が残ったままで、退場の際にもう一度流れた『明日はきっといい日になる』を自然に歌い出すファンたち。
照明がついて、あたりを見回すと本当にみんなが笑顔で楽しそうだった。

高橋優の曲の歌詞を見ていると、どれも前を向いて生きていこうとか笑顔はすばらしいだとか、大筋はどこかで見たことあるようなことばかりだ。

綺麗事だけ並べて、わかったような顔して前を向こうなんて歌わないで!
ほかの歌手が歌っていたらきっとそんなようなことを思うだろう。嫌いな部類のメッセージだ。

だけど、彼の曲が心に響くのはきっと、その率直な歌詞が彼自身の本当の気持ちで、それを荒っぽいと思えるほどのまっすぐな歌声に乗せているからだと思うのだ。

ときに生々しさを感じさせ、現実を突きつける詞に続く飾りのない希望はどれだけ聞いたことのある言葉でも、確かに馬鹿正直な本物だ。

もうすこしだけ、がんばりたいと思えたよ。ありがとうございました。

ガラス越しの未来

久しぶりに満員電車にのった。
吐息がかかるのを頬に感じるくらいに名前も知らないだれかと近づくことなんて、電車の中くらいしかない。

混みすぎて本を開くこともできなかったから、うつむいて携帯をみていたら周りに立っている人たちの気配が、ぐっと迫ってくるような気がして滅入りそうになった。

たまらなくなってふと顔をあげるとたくさんの人の肩の隙間からきれいな夕焼けが見えた。

昼間の澄んだ青と、夜の深い藍のちょうど中間のような色の空と、沈みかけの太陽が橙色に染めた地平線。

地面に向かってだんだん朱色に近づくあたたかな色と、夜の鈍い足音みたいな冷たい色。正反対の2色は、昼と夜のあいだのほんのすこしの時間だけ混じりあって不思議なグラデーションを作っていた。


夕焼けの物憂げな色を見ると、カクテルみたいだなといつも思う。

甘くてジュースみたいだけれど、飲んだあとにふわふわする感覚に気づいてはじめて酔ったことに気がつく。

お酒を飲めるようになるまではもうすこし時間がかかるから、飲んだ時のほんとうの感覚はまだ知ることができないけど、背伸びをして、大人になったつもりで想像することならできる。

未だ知らないものである夜の街と、よくなじんだ昼の明るい街が同時に姿を見せる夕方は、手を伸ばしてもほんのちょっと届かない違う世界のようだ。
ハイヒールを履いて夜の街を歩いて、お酒を飲んで火照った横顔を誰かに見せているかもしれない何年か先のわたしみたいな。

知らないだれかの肩と電車の厚いガラスの窓越しに見ると、伸ばした指のすこし先にあるはずの世界は憧れをあつめた大人びた夢のようで、満員電車に揺られていることを一瞬だけ忘れさせてくれた。

大切なクレヨンのかけら

わたしが本を読みはじめたのは6歳のときだった。
小学校に入るすこし前、母がとつぜん古本屋さんで50冊くらいごそっと本を買ってきた。母からわたしへの、入学祝いだったらしい。

なんの前ぶれもなくわたしのお部屋にやってきたそのたくさんの本は、福永令三さんのクレヨン王国シリーズだった。

1巻目、『クレヨン王国の十二ヶ月』を手にとって読みはじめる。
小学生のゆかちゃんがとびこんでいく、色とりどりのクレヨンたちの街。
わがままだけれどキュートなシルバー王妃と、やさしいけれどすこし不思議な登場人物たち。
あたたかくて魅力的な物語に夢中になるのに時間はかからなかった。


わたし自身はちっとも覚えていないのだけれど、小さいころのわたしは本がきらいだったらしい。
寝る前に読みきかせをしてもらうのも嫌で、どうしてこんなに本に抵抗があるのか母をなやませるほどだったという。もっとも、その悩みは杞憂に終わったわけだけれど。

ゆかちゃんのあとを追ってクレヨン王国にすいこまれてしまったわたしは、しばらくとどまるところを知らなかった。

はじめての遠足のバスに揺られて、吐き気をこらえながら読んだパトロール隊長。
読むのがはやすぎて母に驚かれるのが恥ずかしくて、表紙を裏返して上下さかさまのまま読んだ白いなぎさ。
ベッドで読み終わって続きにどきどきしながら母に感想を伝えたら、寝ぼけた母が森三中の話をしはじめた月のたまご

わたしの夢の王国には、読んでも読んでもあたらしい冒険が待っていていつもわくわくしていたし、主人公が危険におちいるシーンでは一緒に手に汗を握った。
純粋でステキなやさしい物語が見渡すかぎり広がっていたあの頃のときめきは、いま読みかえしても戻ってこない。わたしは大きくなりすぎてしまった。


このあいだふっと思い出して、中学二年生まで住んでいた、祖父母の家のわたしの部屋にクレヨン王国をとりに行った。
数年前までわたしのものであふれていた部屋は、ベッドの向かい側の壁が2メートルほどの本棚で埋まっているけれど、その本棚もこの数年でずいぶん中身が変わった。

わたしの大切な希望の国のお話は、一冊も見つからなかった。

どうやら、引っ越すすこし前、大人の本を読みはじめたわたしは児童書のつまった自室の本棚が照れくさくなって処分してしまったようだった。

50冊とちょっとの青いファンシーな背表紙の本は子どもっぽくてはずかしかったから、もう読まないと思った数十冊は箱につめて、あたらしい誰かに読んでもらおうとさようならしたことは覚えている。

だけど、はじまりの一冊、『クレヨン王国の十二ヶ月』といちばん好きだった『クレヨン王国 十二妖怪の結婚式』と、おきにいりのあと数冊は確かに残しておいたはずだったのだ。

信じられなくてなんどもなんども本棚を探したけれど、一冊も出てくることはなかった。

もう一度、あたらしい本を買おうか。ぴかぴかの新品を買うより、ほかのだれかが読んだ古本のほうがいいだろうか。

悩んだけれど、どちらもしっくりこなくて結局そのまま手に取っていない。あたらしいものを買ってもきれいなままで読んでしまうだろうし、ふるい本を買ってもわたしがドキドキしながらめくったあのページたちが戻ってくるわけじゃない。

児童書は大人が読んでも楽しいものだけれど、こどもの胸をときめかせるために生まれた彼らは本来のお客さまであるこどもに読んでもらわないと寂しいだろう。

わたしは本を読むのが好きだし、本のなかに広がる世界に触れられない人生は想像がつかない。でも、誰もがそうとは限らないし将来生まれるはずのわたしのこどもが本読みになるかはわからない。

まだ存在もしていない彼あるいは彼女。ひとつだけわたしのわがままを許してほしい。どうか、クレヨン王国を手に取ってください。

いまもわたしの胸に残る、愛しいクレヨンのかけらたちは、それですこし救われると思うから。

「父が逮捕されました」


文部科学大臣賞を取った、中学二年生の子が書いた作文の要約を読んだ。
叔母の市長選出馬をサポートした父が公職選挙法に違反し、捕まってしまうという内容だ。

こういう文章を書けば文部科学大臣賞が取れるのか。正直意外だった。
要約だからどこまで彼女自身が作文に書いた言葉かはわからないけど、いくつかの表現が、読んでいて不協和音の仲間はずれの音みたいにざらざらとした違和感を残したからだ。

ひとつは、「門扉」とか「夕刻」みたいな二字熟語。
ふだんはもっと易しい言葉を使うところを、あえて日常生活ではあまりなじみのない言葉に置きかえているところ。

もう一つはたとえのつかいかた。
これはきっと原稿用紙80枚、約3万2000字をぎゅっと詰められてしまったことが原因だと思うけれど、現実的な話のなかで突然出てくる船や祭りのたとえは唐突に感じて、ん?となった。

わたしは、文章の全体のバランスに敏感なところがある。
漢字とひらがなの使い分けにはすごく気をつかうし、前後何文かで同じ言葉を何回をつかうことはできるだけ避けることにしている。

自分自身が頭のなかで考えているときに出てこないような難しい単語は文章でも書かない。知識として持っていて意味を理解していることばでも、実際に文章のなかに組み入れてみると自分自身になじんでいないから、読みかえすとなんとなく目立ってしまう。

いまでこそきれいな読みやすい文章を書くために気をつけていることになっているけれど、もともとはただただ考えたまま話しているだけなのに学校で、「あの子は難しい言葉や古くさい言葉を使うからムカつく、インテリぶってる中二病」なんて叩かれた数年前に生まれたこだわりだったりする。

受賞した彼女の作文に違和感を感じたのも、このあたりの自分のなかのしこりが原因なのだと思う。
わたしは中高生にふさわしくないような難しい単語や表現をつかっていじめられたのに彼女は文部科学大臣賞なんて取っちゃって、大人に才能を認められて、満場一致の最高得点で受賞なんてずるい。

批判の姿勢になりかけて、あらためて要約の載った記事を読みなおした。
一度目は背のびした単語と仰々しいたとえに目がいってしまってわからなかったけれど、読み返してみると全体としてはおおむね淡々と事実を伝える文章だ。
おそらく状況の描写と人物の行動の描写のバランスや取捨選択もうまい。

悔しいけど、彼女の書いた作文全文を、読んでみたいと思った。

父親公職選挙法違反による逮捕なんてあまりにも衝撃的かつ貴重なテーマで、こんなの文章がどうであれ一回読んだら忘れられないし、わたしもこんな状況遭遇して一筆取らせていただきたいわ!と思ったけれど、事実をありのままに表現する力はうらやましい。

3月に単行本、それよりもすこし早くに電子書籍が出る予定のようなので刊行されたら一度目を通してみようと思う。