砂の家
文章を書くことから一度距離を置こう、心底書きたくなるまで、書かずにはいられなくなる瞬間が来るまではじっとしていようと決意をしたはずだったが、性根がおしゃべりなのはどうにも止めることができないのでこうしてキーボードを鳴らしている。
わたしはおしゃべりだけれども話はうまくない。たくさんお話をするとああではないこうではない、ああ伝わらなかったとがっかりして苦しくなるので文章を書くほうが好きだ。
話すように書くとはよく言うが、わたしのお世話になった大学の先生はコロナ禍でゼミ生向けに「話すように書いていきます」と前置きをして本当に彼の声が聞こえてくるほどの完璧な言文一致で指導のアナウンスをしていた。チャーミングな書き言葉をそのまま話す先生のことに、どれほど親愛の情を抱いたことだったか。家のなかに大学生活が立ち現れた混乱のさなかで、声から文字に移し替えてもすこしも人格に揺らぎのない先生にわたしはとても励まされていた。
大学を卒業して会社に入って、ゆかりのない都市に住みはじめて1年になりつつある。1年間で思ったより遠くに来てしまったと振り返ってみると思う。
1万キロ離れた土地に住んでいたことがあるので、物理的な距離は実のところそれほど大きくはない。成長をしたとか、社会的に地位が大きく変わったとか、そういう「とんでもないことを成し遂げてしまった」みたいな遠さでもない。去年のいまごろ世の中にいたわたしといまここにいるわたしでは、社会や人生との接しかたが異なっている。そういう距離だ。去年のわたしと今年のわたしの心理的距離とでもいうべきか。
それがいいことなのかわるいことなのかはわかっていない。ただ、一般的に言われている「大人になる」というのはきっとこういうことを指していうのだろうとぼんやり考えている。
学生と社会人では時間の流れかたがはっきりと違う。
決められた期間で自分の環境が変わることはない。
住む場所や周りの人の顔ぶれはなだらかに変化していくが、我々が社会から卒業するのは死ぬときだ。いつ死ぬかはわかっていない。
わたしは遠くを見るようになった。
中長期的な成長計画、人生の次のフェーズのための貯金や人間関係。いまやれることはあるけれど、結果はどれもすぐにはわからない。
いますぐ救ってほしい苦しさはない、さまざまな人生の要素に自分が比較的恵まれているほうだということもわかった。でもなんとなく、酸素濃度の低い霧のなかにいるような、のっぺりとした息苦しさにずっとさいなまれている。
饒舌に書き始めたはずがすこしずつ速度を失ってきた、とりあえずいま言いたいのはこれだけだ。