平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

日々をやりすごす

最近、これといってすることがない。

することがないけどなにかをしている気分になりたいので、そういうときはとりあえず湯船にたっぷりのお湯を張ってざぶんと浸かる。いまの家は蛇口からお湯を注ぐタイプの浴槽なので、水の着地点に液状の入浴剤を注いでおくとちょうどいい具合の泡風呂ができる。マカダミアナッツとオレンジとカルダモンの香りがするはずの入浴剤は、心なしかマカダミアナッツの気配が強い。ハワイの屈託のない日差しがあれほどわたしは嫌いだったのに、どうしてぎりぎりの底であの明るい土地を思い浮かべるような匂いを好んで使っているのだろうか。

体温より何度か熱いお湯に肩まで浸かり、髪に泡のかたまりをいくつもひっつけながらひとりで苦笑いする。

ほんとうは熱いのは苦手だ。からだからどんどん水分が抜けていって、わたしの内側がどくんどくんと音をたてる。心臓がうるさい。眠るときもこの音が気になってなかなか寝つけないことがあるのだが、これがなくなってしまえばわたしという意識はどこかへ消失するということもよくわかっているので余計に心臓の音を意識して恐怖を感じる。

 

思えばもう何年も「今日も今日とて社会に適合できなかった」とへらへらした顔で、なかば自慢げにインターネットにつぶやいてきた。けれど改めて「不適応」と医者に言われるとうんざりする。冬の小学校を思い出してしまう。わたしの通っていた小学校には庭に小さな池があって、真冬になると氷が張るのでみんなが度胸試しのようにその氷の上を歩いていた。氷は足をのせると見た目よりずっと薄くて脆く、ときどき児童の重みに耐えきれなくなって冷え切った水の中へ陥れる。

みんなは今日も平然とその薄い氷の上を歩いている。どこで割れるかわからないのに。

もしかしたら、みんなにとっては堅固なコンクリートの足場なのかもしれない。他人の気持ちはわからないし、他人の眼から見た世の中はどんな色をしているのかわからない。わたしが緑だと思っている色は世間の人のピンクなのかもしれない。

 

一度お湯に浸かるとなかなか出ることができない。立ち上がると血流がどうにかなってどうしようもなく具合が悪くなるし、外が寒くて悲しくなるから。惰性で湯船の中に座り続けていると、もこもこだった泡は水面の一部に申し訳程度に浮かぶちいさな記号になる。肌が赤くなるほど熱かったお湯は冷えてどんどん心細さを増していく。

指はふやけて、無限にあるはずのインターネットの文字情報を一通り巡回し終えてしまう。そろそろ頃合いかと諦めて浴槽を出ると吐き気と手先の震えがやってくる。

 

ひとりきりでいても、だれかといても快適に過ごせないことがある。

わたしはわたしがどうしたら快適なのかすこしも見当がついていない。

 

コミュニケーションだって同じで、その場では楽しい時間を過ごせている気がしても、あとになると不愉快を見せかけの笑顔で塗りつぶしていたことに気がつく。

そういうときはその場でたいてい表情筋のこわばりを感じているのに、わたしはそれが自分の不愉快の証だとわからない。

上手に笑えているだろうか、上手に相手を気持ちよくさせられているだろうか、そればかりが気になって「いやーそうですよね」「ありがとうございます」「ほんとうに、ね~」と手持ちの少ない相づちを繰り返してしまう。

おだやかそうな小娘に頼まれてもいないのにアドバイスを繰り出すのは楽しいだろう、あなたのアドバイスを聞き入れるに値のするものだとはみじんも思っていなくても、表面上はすこし困ったような顔で神妙に受け容れているのだから。

わたしはわたしの意地悪さを見抜く人たちが好きだ、「にこにこしていても心の底ではぼろくそに罵っていそう」と言われるとほっとする。でも世の中のたいていのひとはわたしの小ずるさに気がつかないので、気持ち良さそうにアドバイスをして去って行く。

 

そういう人たちの適当なアドバイスなど傾聴するまでもなく、わたしはわたしがどうしたら幸せになれるのかを理解している。真に必要なのは「理解のある彼くん」などではなく、「現実を認められるわたしちゃん」だ。

でも、その理想の「わたしちゃん」をどうしたら手に入れられるのかがわからない。自分をじょうずに甘やかすすべさえわかっていないのだから無理もないが。

現実をしっかりと見据えて、だめでもやぶれかぶれでも「それでも大丈夫」と思えるしなやかさが必要なのだと心では理解している。それは人に求めるものではなくて、自分の中から素直に湧き出るものでないと意味がない。

雪が降ると重みに負けてすぐに形をかえてしまうようなか弱い枝に見えても、じつは芯が折れないままじっと春を待っている枝になれればきっと明日も生きていけると思う。

じっと部屋の隅で考えている。