平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

Re: はる

ひと月とすこしのあいだで、おそろしいほど心がかろやかになった。
たくさんの肩の荷が同時に降りたのだとおもう、違う時期に買った化粧品が同時期につぎつぎになくなるのとちょうどおなじような具合に。

一月は三が日があけたら卒論をはじめようと思っていて、そのとおりにはじめたところ気がついたら締め切りの二十五日になっていた。何日徹夜したのか記憶にない。
論文は書くまでがほんとうにつらくて、書き始めてからもすごくつらかった。正直に言えば、終わったいまもけっこうつらい。
わたしの卒業論文は、在学中からうすうす感じていた自分の勉強不足をひとつひとつ確かめて明らかにする作業だった。

2年の終わりからなんとなくテーマは決めていて、3年の終わりにはもう最初の構想発表をしていたのにどうして関係する本を読まなかったのだろう。どうして調べたらわかることを整理して書くだけの部分(けっこうな部分がこれにあたる)を、締切月になるまで書かなかったのだろう。コロナ禍で図書館の開館がイレギュラーになっているのはわかっていたのに、どうして構想中にきちんと入手の難しい資料を揃えていなかったのだろう。どうしてもっとちゃんと授業を受けなかったのだろう。どうしてこんな状態なのにぼんやり修士に行きたいなんて言っていたのだろう。

自分を責める疑問詞ばかりが浮かんだ。

移動時間に「卒業論文 終わらない」でGoogle検索して、卒業を諦めろという知恵袋の回答を見てちょっと泣いた。

それでも入学前から取ると決めていたプラスアルファの過程をなんとか終えて、「大学での勉強」には苦し紛れながらも終止符を打てた。
とても満足のいく出来ではなかったけれど書き終えたことには書き終えたし、研究テーマのことを心から愛して、資料を手に入れて読む時間を楽しむことはできて、いちおう同じ大学内の同学年のなかではいちばん研究テーマに詳しくなったのではないかと自分では思っている。

卒論を終えたらすぐに内定先で呼ばれている仕事が忙しくなって、ついでに後輩と話をする機会も増えた。

この1年間(にすこし足りないくらいの期間)、ずっとずっと、なんでわたしがここに受かってしまったんだろうと思っていたのだけれど、いまは周りの人と素直に話をしてすこしわかったような気がしている。

わたしは前に立っておもしろい話をするのが上手なタイプではないし、筋道立てて周りに説明するのが得意なタイプでもない。ひとの話を聞いているふりをしながらたぶん8割くらいは内側のことを考えているので、ちょっと地に足がついていないタイプだ。
だけど、周りが見落とすちょっとした「おもしろい」のきっかけをしれっと見つけて拾ってくることはできる。周りが一蹴するようなちょっと変わった話を心から「おもしろいね」と言いながら聞くことはできる。

こういうことは、王道の就活では長所にはしてもらえない。うまく言葉にできていないかもしれないが、王道は「周りの人」がやってる方法で、彼らはわたしが見つける面白いものを見落としてきているのにそういうわたしの面白さをわかるわけがないからだ。

長所だと気づいていない長所を上手にアピールすることはできなかったから、本来もうすこし先に進むべきいろいろなところの選考の序盤でたくさん落ちた。
そういうなかでめざとくわたしの「おもしろい」を拾って共有してくれたのが、これから行くところなのだと思っている。



大学受験に臨む直前に、当時通っていた塾でスティーブ・ジョブズのスピーチをはなむけとして贈られたのをよく覚えている。

有名な話で洒落臭い話でもあるが、やっぱり人生は点の連続で、点は振り返らないと線にならない。

たぶん、これから引く線をしっかり予測してうまく点を打てるひとが一般的に世の中で成功するひとで、点をがむしゃらに乱打してしまうひとががんばっているのになぜか報われないひとなのだ。
わたしはふわふわーっと点を打ってあとからもっともらしく線を引けるタイプかなと自分では分析している。予測の試行数はおそらく前者なみに多いけれど、自分のなかでもその試行数をきちんと把握できていない。
選択肢を候補としていくつか挙げてはいるけれど、その選択肢の輪郭をぼやかしたままにしているのだと思う。
あとから繋げうる薄い点をいくつも持っている状態というべきかもしれない。


大学の入学祝いにジャン・クロード・エレナという調香師が作ったエルメスの李氏の庭というフレッシュな香水を買って、卒業祝いに彼の調香したエルメスのアンブルナルギレというディープな香水を買った。

いくつものものごとが収束に向かって勢いよく動いている速度を肌で感じて、あたらしいはじまりにすこしだけ胸が高鳴る。