祈りのたびに花が降る
いぬが死んでしまった。9歳だった。
もともとすこし心臓が悪くて、薬を飲んでいた。それでもまだ5年くらいは一緒にいられると思っていた矢先の急逝だった。
いま、むりやり過去形にしている。まだ受け入れられていない。視線をすぐそばにやると布にくるまれていつものクッションに横たわっているかれがいる。苦しかったはずなのに、整った安らかな顔をしている。晴れた日のこの時間にはいつもかれはそこにいて、死んだように横たわって日光を浴びていたからそれはいつもの光景とほとんど変わりがないのだ。苦しかった心臓はもう動いていないのだけれど。
「星になった」「虹の橋を渡った」みたいなことは言いたくない。
ここにあるのは、ただ温もりが引いていく、シンプルな事実だ。
気の強いいぬだった。
わたしのことを妹だと思っていて、気が乗らないときに触るとすぐ怒っていたし、撫でろとやってきても自分が満足したらもう撫でるんじゃないとやっぱり怒っていた。わたしの手にはいつもかれの歯の跡がすこしついていた。いまもまだ左手の中指の甘皮のところと、関節の真ん中に痕跡がある。たしか昨日噛まれた。
すこし調子が悪くなってひどい咳をしていたので咳をするたびに駆け寄って撫でさすることにしていたら、咳が止まってしばらくしても撫でていたら怒られたのだったと思う。
おなかを叩くとぽこぽこといい音がするいぬだった。
「なでろ」と背中を向けてくることがおおくて、よく後ろからおなかを交互に叩いた。ぽこぽこぽこぽこ、ぽこぽこぽこぽこ、大人しく太鼓になっているかれからは朗らかないい音がした。呼吸のたびにすこしおなかの皮膚が動くのが感じられて、体温が伝わる。ぽこぽこぽこぽこ、ぽこぽこぽこぽこ、かれがここにいてくれるだけのことがどれほどわたしにとって幸せなのだろう、そう思いながら叩いていた。
わたしは元死にたがりで、いまもたぶんほかの人よりはちょっと死を気にしながら生きている。
9年間、ずっといつか来るお別れの日をちょっとずつ意識しながら暮らしていた。
いつかお別れが来るけれど、いまはかれがここにいてくれて、すこしあたたかい。それはなんて幸せなことなんだろう。そう思いつづけていた。
9年間、ずっと、ずっと嬉しかった。
昨日の深夜、映画を観ていたら眠っていたかれが起きた。
咳をしながらわたしのいるリビングと寝室を行ったり来たりした。
映画を観ているわたしのところにやってきて、向かいからわたしをじっと見つめてから、「おいお前、撫でろ」と背中をこちらに向けた。
撫でたり、すこしぽこぽこしたりしてみた。からだで息をしていたからもしかしたらもうだめかもしれないとすこしだけ思っていた。
寝室にいた母をかれが呼び出してきて、3人で一緒にすこし寝た。
眠くて、今朝のことはあんまり覚えていない。
病院に行きたくなくて、リビングで寝ているわたしの真横に来てハーネスをもつ母に抵抗していた(これはわりといつものこと)。
ここから先は書いても悲しさが満ちているだけなので割愛するけれど、わたしは押しボタン式の信号が青になるのを待ってしまった。
すごく長かった。車が来なくなってもなかなか青にならなかった。
信号を無視して走っていたら、かれが息を引き取る瞬間に間に合ったのかもしれなかった。それくらいタッチの差だった。
母が花をたくさん買いにいっている。かれをたくさんのお花と一緒に籠にいれて見送る。
だれかのことを心の底から愛していると思える瞬間はそう多くない。
横にいるときも、横にいないときも。
この投稿を書こうと思ったときにまず、以前Twitterで見かけた話を思い出した。
死んでしまっただれかのことを思うとき、その人の周りに花が降る。
きっと、わたしの心の中にはこれからもずっとかれがいる。
たくさん、たくさん花を降らせる。
2016年4月19日、一緒に花輪を作って遊んだ