平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

考えること・夜


夜、車に乗って、助手席から電灯の並ぶ道路を窓から眺める。

空はまっくらなのに、たくさんの灯りに照らされて明るいままで。
小さいころから住んでいる街の、よく知っている風景のはずなのに、ぜんぜん違う気がする。


半年くらいの間に、いままでのわたしの人生で、わたしを当たり前に取り巻いていたものがいっぺんに去っていって、わたしは自分の好きなものとか、これだけは譲れないって思っていたことも見失った。

それから、はっきりとは意識していなかったけど、ずっとずっといろんなものについての考えごと繰り返していた。
たくさんの再考を重ねて、結論は出せなくてもそれなりに自分で納得がいく方向を探した。


そうやって見つけたあたらしい理由や意味を根拠にしているわたしは、いままでと同じひとなのかなって車に乗りながらぼんやり考えていた。
同じ思い出を持って、同じ顔立ちと同じ声を持っているけど、よりどころや、目指す先にもつ気持ちは、同じではない。

生きている、いまのわたしの芯になっているそういう気持ちが違ったら、違うひとって言ってもいいんじゃないかな。

ちょっと気が楽になった気がして、車の振動が心地よかった。

高い敷居について


いつもみている好きなバラエティ番組で、歌手志望のお姉さんの歌詞ノートを読みながら芸人がその内容をネタに笑っている場面があった。

自分に関係があるわけじゃなくても、すごく傷ついた。

お笑い芸人だって、おもしろいことを考えてお客さんを笑わせる表現者なのに、素人だからって、売れていないからって、ベクトルは違えど同じことをしているひとの表現を指さしてバカにしちゃうんだ。

その場ではぼんやり流したし、誰かに言うことはなかったけど、しばらくあたまの中にひっかかっていた。


なにかを表現すること、とくに歌詞とか文章は、自分の本質をそのままさらけ出すことだと思うから、わたしにとって作品をバカにして笑うことは作者自身を軽んじることに等しい。

世の中にはたしかに持つ者と持たざる者がいるということはわかっている。
けれど、どちらかを判断することってむずかしいことだと思う。
つたなくて、質の低いものをつくるひとでも磨けば光る原石かもしれないのに。


なんというか、こういうことに遭遇すると、自己表現はとりあえずかっこわるい、みたいな風潮をどうしても感じてしまう。

最初は自己陶酔にあふれたものでも、つっこみどころ満載でも、とりあえず最初の一歩を踏み出さないとなにもはじまらないし、自分に才能があるかなんてずっとずっと先でしかわからないかもしれないのに、踏み出したところで周りに笑われたら、そこでくじけてしまうひとはとても多いのではないだろうか。
すくなくとも、わたしは間違いなくくじける。

こうやって文章を書いていても、自分ではこれが自分に酔いしれている行動なのかそうじゃないのか、ひとにどう伝わるかは全然わからないから、読んでくれるひとがそんなに多くないのはわかっていても、公開するのはかなり怖い。

もっともっと、自己表現があたりまえの世の中になればいいのに。あるいは、胸をはってわたしの文章を読んで!って言えるような自分になりたい、な。

その色は青

幼いころから、「大人っぽいね」とか「落ち着いてるね」って周りのひとに言われることがすごく多い。
大人はたいていほめ言葉のように言ってくれるけれど、同年代の子どもがわたしにそう言うときは、ことばの内側にたしかな線引きがある。

大人っぽいから、こどもっぽいわたしたちとは考えていることが違うよね。落ち着いているから、わたしたちの言うことなんか面白くないよね。

やわらかだけど、明確な拒絶。
すごくさびしくなる。

被害妄想かもしれないし、こういうことを言っていること自体が自虐風自慢に聞こえるのかもしれないけれど、とにかくかなしい。

まわりの17歳の女の子があたりまえのように持っている、女子高生という称号、制服という記号を自分から投げ捨てておいて、「わたしのことを歳なりの女の子として見て!」なんて虫のいい話だとはわかっているけれど。

LINEを友だちとの自撮りアイコンにして、InstagramTwitterにはたくさんのリア友、週末ははやりのお店に並んだり、人気俳優が主演の青春映画を観に行って「楽しかったー!」なんてコラージュ動画をSNSにアップしたらいいねがたくさんくる、そんな女子高生にちょっと憧れる。普段は馬鹿にしてるくせに。

たりない知識と経験をふりしぼって世の中について考えて、わかったふりして小難しいこと書いては自分の幼さと浅はかさに愕然とするような人生より、まわりがなんと言おうと、いましか手に入れられなさそうな目の前の幸せを精いっぱい楽しめる人生のほうが幸せそうじゃない?

隣の芝生が青く見えてしまう自分の青さがもどかしい。まわりの評価に恥じないくらい、大人っぽく落ち着いていられれば良いのにね。

ダイヤモンドの覚悟


どうしてもやりたいことって、なかなか見つからない。

高校生が行きたい大学を探すときに、大人は「将来やりたい仕事とか目標から逆算して決めましょう」なんて言うけれど、たかだか16とか17で自分にはこれしかないって腹をくくって将来を描くことのできる人っていったいどれくらい存在しているんだろう。


わたしたち子どもの世界に明確に仕事を見せてくれる職業なんて、芸能人とかサッカー選手か先生くらいしかいない。

サラリーマンが具体的に何をしているかも知らないのに、将来の夢を考えたって思いつくのはぼんやりしたことばかりだし、そのかぎりなくあいまいな目標から逆算して決めた進路には、たぶん覚悟を決めて勉強とかなにかに打ち込めるほどの説得力はない。


だから、わたしは大人になってやりたい仕事より、いまの自分が心の底から好きだと胸を張って言えるものが何なのかをずっと考えていた。

好きである、興味があるっていうものにはできるだけたくさん接していたいし、できるだけ生活の多くの部分をその好きなものが占めているほうが幸せだと思うから、結果的には「したいこと」になる。だけど、その「したいこと」は将来の夢とは違っていまの自分と密接しているからこそたぐり寄せることのできたものだ。


「将来やりたいことを見つける」というのは、未来の自分がその未来でやってみたいと思うことをいま現在の視点や価値観から想像することで、一年先さえ見当もつかないのにそのずっと先を見渡さないといけないから難しいし、その想像がこの先数年を費やしてもいいと思えるほどたしかなものになることはすごく少ない。

それに比べると、いまの自分とできる限り誠実に向き合って見つけた「したいこと」はずっと身近だから、叶えるために必要な努力も想像がしやすい。だから、より真面目に受けとめることができた。


けれど、物心ついてからたった十数年の少ない経験の中でさえ、ふたを開けてみたら現実は理想と大きく違っていてがっかりしたことはたくさんあったから、臆病なわたしは探し出した「したいこと」が本当にいまの自分の楽しい時間を諦めて費やす努力に値するものかどうかわからなくて足踏みをしていた。


実際に体験してみるまで物事の実態をつかむことは難しい。だから、無数に分岐する可能性におびえて一度歩みを止めてしまったらそこから前に進むことってすごく大変だ。


わたしはいま、自分の実力で飛べる高さより高いハードルを越えることを目指しているのだけれど、本当にその目標が飛ぶことのできる高さなのか、越えた先に待っていることははたして本当にいちばん惹かれるものなのかがわからなくなって、逃げ道を探そうとしていた。

せっかく苦しい努力をしたって待ちうけているものが他の選択肢と変わらないなら、楽なほうを選んで、そこから生まれる余裕をいましたいことに回すほうが良いのかもしれないって思った。


そういうときに、たまたま、わたしが目指す道を通って、さらにその先を歩んでいる方にお会いすることができて、得たものはすごく大きかった。

無謀な挑戦かもしれないけれど、越えた先で待っていることはやっぱり本当にどうしようもなく眩しいんだってことを教えてもらって、わたしはどうしてもたどり着きたいと思った。

いま高いハードルを越えることはゴールじゃなくて、むしろ越えてからがスタートだと思うのだけれど。

わたしの目指す、たしかな世界が動き始めたと強く感じた。

わたしのそばに輝く星

人の一生を86年とすると、2年間はおよそ2.3%にあたる。
全体の50分の1よりちょっとおおいだけの、ほんのすこしの時間に見えるかもしれないけれど、17歳のわたしにとっての2年間はいままでの人生の12%を占めている。

それだけの期間、変わらずずっとひとつのものに夢中でいられるって、すごいことなんじゃないだろうかとおもう。


わたしがTokyo 7th シスターズに出会ったのは2014年の3月のはじめ、いまから1年11ヶ月と2週間くらい前のことで、正確にいうとまだ2年前じゃないんだけれど、今日はそのTokyo 7th シスターズあらためナナシスが世の中に出てからぴったり2年の節目の日だから、そのナナシスについてすこしだけ。


ナナシスがリリースされた2014年、わたしはオタクが嫌いだった。

中学1年生のころにたまたま曲を聞いたボーカロイドがきっかけで、わたしステレオタイプな二次元オタクになりかけていたのだけど、それを知った周りの引きよう、わたしを気持ち悪がる様子はかなりショックだった。

本を読むことと、ネットでボーカロイドの曲を聴くことはその頃のわたしにとっては、どちらも大好きな自分だけの世界を広げる・楽しむためのツールで、二つの間にはなにも違いがなかったからだ。

自分のなかの気持ちは同じでも、一方は気持ち悪がられるのに、もう一方は熱意を表に出せば出すほどほめられ、得になっていった。


アニメや漫画、ボーカロイドを好きな人は気持ち悪いから、二次元は総じて、気持ち悪い。好きでいたら周りから嫌われてしまうから、好きになることはすごく良くないことだ。
そう思う気持ちがすこしずつ大きくなっていって、わたしは自分がアニメを漫画に興味があることを絶対に認めなかったし、オープンに「気持ち悪い」ことを好きだ、と言うオタクが大嫌いだった。


「アイドルなんて大っ嫌い!」
可愛いイラストがどうしても気になって、こっそりはじめたアイドルを育てるゲームで主人公が最初に放ったセリフに仰天した。そのまま、夢中でシナリオを読み進めた。

それが、2年前の3月のはじめのこと。いまでも、わたしは変わらず彼女に心を奪われたままだ。

二次元の世界は、ちっとも気持ち悪くなんてなかった。痛いくらいまっすぐに、素直に、夢に向かってまばゆい輝きを放とうともがいていた。

美化された虚構に目を輝かせて胸をおどらせるわたしは周りがみたら気持ち悪いのかもしれないけど、そんなの関係ないと心から思えるくらいに魅力的だった。


今日ゲーム内でリリースされた2周年記念のシナリオを読んで、こみあげてきた気持ちは自分でもうまく表すことができなくて、いま文章を書いていても伝えたいことはどんどんわたしのなかに湧き上がってあふれてきて、正直とまどっているのだけれど。


どんなかすかなきらめきをも見つけだして、まわりで起こることをすべて輝きに変えていった七咲ニコルと7th シスターズ。
彼女たちがのこしていった光の尾をつかもうと、いままさに自らをまばゆく輝かせようとしているナナスタの女の子たちへ。

これからもっとずっときらきらと照らしてくれると、わたしは信じています。まだ見ぬ未来へのワクワクでいっぱいにさせてください。

1stライブに続き、またしても2ndライブへの参加は果たせないと思うけれど、ナナスタのみんなの努力に、笑顔に支えられています。ありがとう。そして、これからもよろしくね。

蜘蛛の糸

わたしは泣くのが苦手だ。
得意なひとのほうがすくない、むしろみんな苦手かもしれないけれど、どんなに悲しくてもわたしはどうしても人前では涙を流すことができない。


悲しみにはふたつの種類があると思う。

ひとつめは、直接的で大きな悲しさ。
「失うこと」と言ってもいい。
契機となるなにかしらのできごとがあってからはじめてそれはやってくる。

大切な誰かがいなくなってしまったり、好きなものをなくしたり壊したりしたとき。誰かに自分や自分の特別なものを貶められたときに感じる悲しさはこれだ。

タイミングはさまざまだと思うけれど、突発的に襲ってくることが多いそれはたいていどこかに臨界点があって、そこで気持ちの発散をすると多少は落ち着く。

わたしはこういう気持ちとのつきあい方に関してはそう苦手じゃない。
子供みたいにひとりでわんわん泣くなり、理不尽にやってきた悲しみに対して怒りを爆発させるなり、なんらかの手段で一度峠を越えれば気持ちの整理がつく。


わたしにとって厄介なのは、ささいなひっかかりやもやもやが積み重なって生まれる悲しさのほうだ。
こちらは一度気づいてしまうとしばらくはただただ漠然と悲しくて、必死であがいてもがいてなんとか抜け出した気分になるしかない。


心がすり減る音が聞こえて、薄くて平たいのに濃密な悲しさがぷしゅうと間抜けに胸を満たす。
泣きたい。そう思っても涙を流すために十分な理由や背景は浮かんでこないし、排出されずに行き場をうしなった涙がしかたなくからだの中をぐるぐると回って、余計に悲しくなってしまう気がする。


口を開けばいやな言葉ばかりが出てくるし、ひとりで頭を動かそうとしてもすぐに悲しさの毒は頭に回って、思考のかろやかで心地のよい動きを封じてしまう。

だから、わたしは活字の世界に逃げる。本をめくればいつだって、実在架空を問わず他人の思考と人生がページを黒く埋めているのだ。

どんな本だって助けてくれるけれど、一番いいのは静かに語られる悲しい誰かのお話だ。そこで流す涙は、その悲しい彼や彼女のためのものであって自分のものではない。
だけど、客観的であるからこそその涙の輪郭ははっきりとしていて、自分のなかで沈んでいくだけだった悲しさを救ってくれる。


芥川龍之介は、ぼんやりとした不安に殺されてしまった。

明確なものは、そのものとおなじように対処法や向きあい方もわかりやすく存在していると思う。
けれど、漠然としたなにかはその「なにか」がそもそも何なのかわからないから、怖い。

ぼんやりとした不安に足をとられて大切なものをうしなわないように、けれどうっかりして心を壊されないように。

一足飛びではやく大人になってしまいたいけれど、向こう岸はまだ遠い。

「おいしくない」の向こう側

クリスマスが終わって、街はあわただしくモミの木をしまって門松を立てる時期になった。

わたしの家はクリスチャンではないけれど、流れに乗っかってそれなりにクリスマスをお祝いするからプレゼントがもらえるし、うきうきしている街を歩くのは楽しいから嫌いじゃない。

もともと人にちょっとしたことで贈り物をするのが好きなタイプだから、クリスマスパーティとか前後のイベントに呼ばれるとすこしはりきってプレゼントを選んだりもする。

嬉しいことに、去年に続いてことしもクリスマスイブの集まりに呼んでもらうことができたのだけど、ことしのパーティは衝撃的な、記憶に残るイベントだった。

開催場所は電車に乗って20分ほどの友達の家。某横浜のオシャレ駅が最寄り駅の、三階建てのすてきなおうちに男女7人で集まって夜ごはんを食べながらクリスマスプレゼント交換をしたり仲良く写真を撮ったりする。

これだけ聞けばすごくいい感じだ。リア充って言葉がピッタリじゃないだろうか。けしからんと思う。

ただ、その「夜ごはん」がすべてをぶち壊す。なんてったってその日のごはんは各自が具材持ち込みの闇鍋だ。

結論から言うと、悪夢だった。 生まれてはじめて本当にまずい料理を食べた。翌日まで胃にピリピリが残った。

まず、ベースはキムチ鍋。市販のタレを買ってきて鍋に入れただけだったから味に間違いはなかった。これは、事前に腹ごしらえで普通にキムチ鍋をしたから実証済みだ。

白菜、湯豆腐、豚肉とエノキを入れてひかえめに鍋をしてから用意してきたものを入れることにした。ある程度食べて満足したあと部屋の照明を落としてから、一旦全員で部屋の外に出た。 順番を決めて一人ずつ鍋に具を加えて出てくる。この時点ではまだ全員ワクワクでにこにこだ。
「ねえねえ何持ってきたのー」なんていいながら小突きあったりしていた。

最初の一人が投入を終えて出てきた瞬間、全員の顔が曇った。 ドアが開いたとたん、あきらかに異臭がした。

首をかしげながら、二人目が入っていく。すると、ドアの向こうから聞こえる笑い声。なにかがおかしい。 三人目は悲鳴をあげた。どうしようどうしようどうしよう!小声で言いながら、泣きそうになっていた。

ジャンケンで勝ったわたしの投入は最後だった。一人であきらかに怪しげなにおいを放つ鍋のふたを開ける。
そのときのわたしは、冗談抜きで目が点になっていたと思う。
半笑いで持参したブツを入れて、ふたを閉めてから外で待っている彼らに声をかけた。

全員揃って、真っ暗なまま鍋を開ける。で、出てきたのがこれだ。

この写真は友だちの一人が撮ったもので、わたしはそのときこれほど鮮明には見えなかったけれどとにかくメロンパンと肉まんは見えた。
メロンパンだけは絶対、当たりたくない。「わたしにだけは回ってきませんように」とこっそり祈った。

目を閉じたまま一人一人鍋におたまを入れて、最初に触ったものを取って行った。よく見えないから不安だったがなんとか全員小皿に取り分をよそった。

「いただきます」
どきどきしながら手を合わせ、一斉に食べはじめる。わたしは、最初にもちっとしたものに当たった。 かすかな甘みを感じて嫌な予感がしたが、ただのまるい鍋団子だった。これは当たりだ!ほっとしたが、器に箸を入れると他の具はないのにどろっとしてげんなりした。

「え、え、なにこれ、くにくにするよなにこれこわい!」「辛くね⁉︎これ辛いよ‼︎」「ウボエエッ」

周りはまさに阿鼻叫喚という感じだった。手元が見えなくて食べづらいので、鍋にふたをして一度電気をつけた。

どろっとしたものの正体は、汁に溶けた小麦粉のなにかだった。一杯目は空にするルールだったから仕方なく口をつける。地獄を見た。 謎の甘みが加わったキムチの汁によくわかんないけどほんのり甘い生地が溶けて甘いのに辛くて食感がどろどろしていた。慌ててお茶でのどに流し込んだ。

もう一周してから各自ネタばらしをしたが、なんというかひたすら悪夢だった。溶けた小麦粉のなにかは、たべっこどうぶつとメロンパンのかけら。汁の甘みは、プリン。
まともな具は鍋団子とキムチくらいだった。 カットフルーツ盛り合わせ、からあげクン、いかのちょっと辛い駄菓子、肉まんとカットされていないこんにゃくまるまる一個、オランダせんべい。それにわたしが持って行ったナタデココと干し梅に花麩。

なにが入っているのを知ってから余計に怖くなって、結局全員、甘ったるいキムチ汁を飲みきれずギブアップした。
自分が当たった具の感想を言い合っていると、個人の味覚の差が顕著になって面白かった。フルーツが一番マシだという人もいれば絶対にフルーツだけは無理という意見もあった。
おかげさまで絶不評だったナタデココは汁を吸ってしまったせいで一噛み目に不思議な食感と一緒に絶望的な甘みがやってきたが、それを適当に受け流せれば案外普通だった。
一番ひどそうだったメロンパンも、皮が厚いから中は無事で、思ったほどひどくなかった。
「普通」と言ってもまずい、食べられない、体が受け付けないの三段階に分けると食べられないと体が受け付けないの間くらいだったからあとは察してほしい。

「なんでクリスマスイブに集まって闇鍋なんかしてるんだよ……」
まったくその通りで涙が出そうになった。二度と闇鍋なんかするもんか、本気で思った。