蜘蛛の糸
わたしは泣くのが苦手だ。
得意なひとのほうがすくない、むしろみんな苦手かもしれないけれど、どんなに悲しくてもわたしはどうしても人前では涙を流すことができない。
悲しみにはふたつの種類があると思う。
ひとつめは、直接的で大きな悲しさ。
「失うこと」と言ってもいい。
契機となるなにかしらのできごとがあってからはじめてそれはやってくる。
大切な誰かがいなくなってしまったり、好きなものをなくしたり壊したりしたとき。誰かに自分や自分の特別なものを貶められたときに感じる悲しさはこれだ。
タイミングはさまざまだと思うけれど、突発的に襲ってくることが多いそれはたいていどこかに臨界点があって、そこで気持ちの発散をすると多少は落ち着く。
わたしはこういう気持ちとのつきあい方に関してはそう苦手じゃない。
子供みたいにひとりでわんわん泣くなり、理不尽にやってきた悲しみに対して怒りを爆発させるなり、なんらかの手段で一度峠を越えれば気持ちの整理がつく。
わたしにとって厄介なのは、ささいなひっかかりやもやもやが積み重なって生まれる悲しさのほうだ。
こちらは一度気づいてしまうとしばらくはただただ漠然と悲しくて、必死であがいてもがいてなんとか抜け出した気分になるしかない。
心がすり減る音が聞こえて、薄くて平たいのに濃密な悲しさがぷしゅうと間抜けに胸を満たす。
泣きたい。そう思っても涙を流すために十分な理由や背景は浮かんでこないし、排出されずに行き場をうしなった涙がしかたなくからだの中をぐるぐると回って、余計に悲しくなってしまう気がする。
口を開けばいやな言葉ばかりが出てくるし、ひとりで頭を動かそうとしてもすぐに悲しさの毒は頭に回って、思考のかろやかで心地のよい動きを封じてしまう。
だから、わたしは活字の世界に逃げる。本をめくればいつだって、実在架空を問わず他人の思考と人生がページを黒く埋めているのだ。
どんな本だって助けてくれるけれど、一番いいのは静かに語られる悲しい誰かのお話だ。そこで流す涙は、その悲しい彼や彼女のためのものであって自分のものではない。
だけど、客観的であるからこそその涙の輪郭ははっきりとしていて、自分のなかで沈んでいくだけだった悲しさを救ってくれる。
芥川龍之介は、ぼんやりとした不安に殺されてしまった。
明確なものは、そのものとおなじように対処法や向きあい方もわかりやすく存在していると思う。
けれど、漠然としたなにかはその「なにか」がそもそも何なのかわからないから、怖い。
ぼんやりとした不安に足をとられて大切なものをうしなわないように、けれどうっかりして心を壊されないように。
一足飛びではやく大人になってしまいたいけれど、向こう岸はまだ遠い。