平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

ダイヤモンドの覚悟


どうしてもやりたいことって、なかなか見つからない。

高校生が行きたい大学を探すときに、大人は「将来やりたい仕事とか目標から逆算して決めましょう」なんて言うけれど、たかだか16とか17で自分にはこれしかないって腹をくくって将来を描くことのできる人っていったいどれくらい存在しているんだろう。


わたしたち子どもの世界に明確に仕事を見せてくれる職業なんて、芸能人とかサッカー選手か先生くらいしかいない。

サラリーマンが具体的に何をしているかも知らないのに、将来の夢を考えたって思いつくのはぼんやりしたことばかりだし、そのかぎりなくあいまいな目標から逆算して決めた進路には、たぶん覚悟を決めて勉強とかなにかに打ち込めるほどの説得力はない。


だから、わたしは大人になってやりたい仕事より、いまの自分が心の底から好きだと胸を張って言えるものが何なのかをずっと考えていた。

好きである、興味があるっていうものにはできるだけたくさん接していたいし、できるだけ生活の多くの部分をその好きなものが占めているほうが幸せだと思うから、結果的には「したいこと」になる。だけど、その「したいこと」は将来の夢とは違っていまの自分と密接しているからこそたぐり寄せることのできたものだ。


「将来やりたいことを見つける」というのは、未来の自分がその未来でやってみたいと思うことをいま現在の視点や価値観から想像することで、一年先さえ見当もつかないのにそのずっと先を見渡さないといけないから難しいし、その想像がこの先数年を費やしてもいいと思えるほどたしかなものになることはすごく少ない。

それに比べると、いまの自分とできる限り誠実に向き合って見つけた「したいこと」はずっと身近だから、叶えるために必要な努力も想像がしやすい。だから、より真面目に受けとめることができた。


けれど、物心ついてからたった十数年の少ない経験の中でさえ、ふたを開けてみたら現実は理想と大きく違っていてがっかりしたことはたくさんあったから、臆病なわたしは探し出した「したいこと」が本当にいまの自分の楽しい時間を諦めて費やす努力に値するものかどうかわからなくて足踏みをしていた。


実際に体験してみるまで物事の実態をつかむことは難しい。だから、無数に分岐する可能性におびえて一度歩みを止めてしまったらそこから前に進むことってすごく大変だ。


わたしはいま、自分の実力で飛べる高さより高いハードルを越えることを目指しているのだけれど、本当にその目標が飛ぶことのできる高さなのか、越えた先に待っていることははたして本当にいちばん惹かれるものなのかがわからなくなって、逃げ道を探そうとしていた。

せっかく苦しい努力をしたって待ちうけているものが他の選択肢と変わらないなら、楽なほうを選んで、そこから生まれる余裕をいましたいことに回すほうが良いのかもしれないって思った。


そういうときに、たまたま、わたしが目指す道を通って、さらにその先を歩んでいる方にお会いすることができて、得たものはすごく大きかった。

無謀な挑戦かもしれないけれど、越えた先で待っていることはやっぱり本当にどうしようもなく眩しいんだってことを教えてもらって、わたしはどうしてもたどり着きたいと思った。

いま高いハードルを越えることはゴールじゃなくて、むしろ越えてからがスタートだと思うのだけれど。

わたしの目指す、たしかな世界が動き始めたと強く感じた。

わたしのそばに輝く星

人の一生を86年とすると、2年間はおよそ2.3%にあたる。
全体の50分の1よりちょっとおおいだけの、ほんのすこしの時間に見えるかもしれないけれど、17歳のわたしにとっての2年間はいままでの人生の12%を占めている。

それだけの期間、変わらずずっとひとつのものに夢中でいられるって、すごいことなんじゃないだろうかとおもう。


わたしがTokyo 7th シスターズに出会ったのは2014年の3月のはじめ、いまから1年11ヶ月と2週間くらい前のことで、正確にいうとまだ2年前じゃないんだけれど、今日はそのTokyo 7th シスターズあらためナナシスが世の中に出てからぴったり2年の節目の日だから、そのナナシスについてすこしだけ。


ナナシスがリリースされた2014年、わたしはオタクが嫌いだった。

中学1年生のころにたまたま曲を聞いたボーカロイドがきっかけで、わたしステレオタイプな二次元オタクになりかけていたのだけど、それを知った周りの引きよう、わたしを気持ち悪がる様子はかなりショックだった。

本を読むことと、ネットでボーカロイドの曲を聴くことはその頃のわたしにとっては、どちらも大好きな自分だけの世界を広げる・楽しむためのツールで、二つの間にはなにも違いがなかったからだ。

自分のなかの気持ちは同じでも、一方は気持ち悪がられるのに、もう一方は熱意を表に出せば出すほどほめられ、得になっていった。


アニメや漫画、ボーカロイドを好きな人は気持ち悪いから、二次元は総じて、気持ち悪い。好きでいたら周りから嫌われてしまうから、好きになることはすごく良くないことだ。
そう思う気持ちがすこしずつ大きくなっていって、わたしは自分がアニメを漫画に興味があることを絶対に認めなかったし、オープンに「気持ち悪い」ことを好きだ、と言うオタクが大嫌いだった。


「アイドルなんて大っ嫌い!」
可愛いイラストがどうしても気になって、こっそりはじめたアイドルを育てるゲームで主人公が最初に放ったセリフに仰天した。そのまま、夢中でシナリオを読み進めた。

それが、2年前の3月のはじめのこと。いまでも、わたしは変わらず彼女に心を奪われたままだ。

二次元の世界は、ちっとも気持ち悪くなんてなかった。痛いくらいまっすぐに、素直に、夢に向かってまばゆい輝きを放とうともがいていた。

美化された虚構に目を輝かせて胸をおどらせるわたしは周りがみたら気持ち悪いのかもしれないけど、そんなの関係ないと心から思えるくらいに魅力的だった。


今日ゲーム内でリリースされた2周年記念のシナリオを読んで、こみあげてきた気持ちは自分でもうまく表すことができなくて、いま文章を書いていても伝えたいことはどんどんわたしのなかに湧き上がってあふれてきて、正直とまどっているのだけれど。


どんなかすかなきらめきをも見つけだして、まわりで起こることをすべて輝きに変えていった七咲ニコルと7th シスターズ。
彼女たちがのこしていった光の尾をつかもうと、いままさに自らをまばゆく輝かせようとしているナナスタの女の子たちへ。

これからもっとずっときらきらと照らしてくれると、わたしは信じています。まだ見ぬ未来へのワクワクでいっぱいにさせてください。

1stライブに続き、またしても2ndライブへの参加は果たせないと思うけれど、ナナスタのみんなの努力に、笑顔に支えられています。ありがとう。そして、これからもよろしくね。

蜘蛛の糸

わたしは泣くのが苦手だ。
得意なひとのほうがすくない、むしろみんな苦手かもしれないけれど、どんなに悲しくてもわたしはどうしても人前では涙を流すことができない。


悲しみにはふたつの種類があると思う。

ひとつめは、直接的で大きな悲しさ。
「失うこと」と言ってもいい。
契機となるなにかしらのできごとがあってからはじめてそれはやってくる。

大切な誰かがいなくなってしまったり、好きなものをなくしたり壊したりしたとき。誰かに自分や自分の特別なものを貶められたときに感じる悲しさはこれだ。

タイミングはさまざまだと思うけれど、突発的に襲ってくることが多いそれはたいていどこかに臨界点があって、そこで気持ちの発散をすると多少は落ち着く。

わたしはこういう気持ちとのつきあい方に関してはそう苦手じゃない。
子供みたいにひとりでわんわん泣くなり、理不尽にやってきた悲しみに対して怒りを爆発させるなり、なんらかの手段で一度峠を越えれば気持ちの整理がつく。


わたしにとって厄介なのは、ささいなひっかかりやもやもやが積み重なって生まれる悲しさのほうだ。
こちらは一度気づいてしまうとしばらくはただただ漠然と悲しくて、必死であがいてもがいてなんとか抜け出した気分になるしかない。


心がすり減る音が聞こえて、薄くて平たいのに濃密な悲しさがぷしゅうと間抜けに胸を満たす。
泣きたい。そう思っても涙を流すために十分な理由や背景は浮かんでこないし、排出されずに行き場をうしなった涙がしかたなくからだの中をぐるぐると回って、余計に悲しくなってしまう気がする。


口を開けばいやな言葉ばかりが出てくるし、ひとりで頭を動かそうとしてもすぐに悲しさの毒は頭に回って、思考のかろやかで心地のよい動きを封じてしまう。

だから、わたしは活字の世界に逃げる。本をめくればいつだって、実在架空を問わず他人の思考と人生がページを黒く埋めているのだ。

どんな本だって助けてくれるけれど、一番いいのは静かに語られる悲しい誰かのお話だ。そこで流す涙は、その悲しい彼や彼女のためのものであって自分のものではない。
だけど、客観的であるからこそその涙の輪郭ははっきりとしていて、自分のなかで沈んでいくだけだった悲しさを救ってくれる。


芥川龍之介は、ぼんやりとした不安に殺されてしまった。

明確なものは、そのものとおなじように対処法や向きあい方もわかりやすく存在していると思う。
けれど、漠然としたなにかはその「なにか」がそもそも何なのかわからないから、怖い。

ぼんやりとした不安に足をとられて大切なものをうしなわないように、けれどうっかりして心を壊されないように。

一足飛びではやく大人になってしまいたいけれど、向こう岸はまだ遠い。

「おいしくない」の向こう側

クリスマスが終わって、街はあわただしくモミの木をしまって門松を立てる時期になった。

わたしの家はクリスチャンではないけれど、流れに乗っかってそれなりにクリスマスをお祝いするからプレゼントがもらえるし、うきうきしている街を歩くのは楽しいから嫌いじゃない。

もともと人にちょっとしたことで贈り物をするのが好きなタイプだから、クリスマスパーティとか前後のイベントに呼ばれるとすこしはりきってプレゼントを選んだりもする。

嬉しいことに、去年に続いてことしもクリスマスイブの集まりに呼んでもらうことができたのだけど、ことしのパーティは衝撃的な、記憶に残るイベントだった。

開催場所は電車に乗って20分ほどの友達の家。某横浜のオシャレ駅が最寄り駅の、三階建てのすてきなおうちに男女7人で集まって夜ごはんを食べながらクリスマスプレゼント交換をしたり仲良く写真を撮ったりする。

これだけ聞けばすごくいい感じだ。リア充って言葉がピッタリじゃないだろうか。けしからんと思う。

ただ、その「夜ごはん」がすべてをぶち壊す。なんてったってその日のごはんは各自が具材持ち込みの闇鍋だ。

結論から言うと、悪夢だった。 生まれてはじめて本当にまずい料理を食べた。翌日まで胃にピリピリが残った。

まず、ベースはキムチ鍋。市販のタレを買ってきて鍋に入れただけだったから味に間違いはなかった。これは、事前に腹ごしらえで普通にキムチ鍋をしたから実証済みだ。

白菜、湯豆腐、豚肉とエノキを入れてひかえめに鍋をしてから用意してきたものを入れることにした。ある程度食べて満足したあと部屋の照明を落としてから、一旦全員で部屋の外に出た。 順番を決めて一人ずつ鍋に具を加えて出てくる。この時点ではまだ全員ワクワクでにこにこだ。
「ねえねえ何持ってきたのー」なんていいながら小突きあったりしていた。

最初の一人が投入を終えて出てきた瞬間、全員の顔が曇った。 ドアが開いたとたん、あきらかに異臭がした。

首をかしげながら、二人目が入っていく。すると、ドアの向こうから聞こえる笑い声。なにかがおかしい。 三人目は悲鳴をあげた。どうしようどうしようどうしよう!小声で言いながら、泣きそうになっていた。

ジャンケンで勝ったわたしの投入は最後だった。一人であきらかに怪しげなにおいを放つ鍋のふたを開ける。
そのときのわたしは、冗談抜きで目が点になっていたと思う。
半笑いで持参したブツを入れて、ふたを閉めてから外で待っている彼らに声をかけた。

全員揃って、真っ暗なまま鍋を開ける。で、出てきたのがこれだ。

この写真は友だちの一人が撮ったもので、わたしはそのときこれほど鮮明には見えなかったけれどとにかくメロンパンと肉まんは見えた。
メロンパンだけは絶対、当たりたくない。「わたしにだけは回ってきませんように」とこっそり祈った。

目を閉じたまま一人一人鍋におたまを入れて、最初に触ったものを取って行った。よく見えないから不安だったがなんとか全員小皿に取り分をよそった。

「いただきます」
どきどきしながら手を合わせ、一斉に食べはじめる。わたしは、最初にもちっとしたものに当たった。 かすかな甘みを感じて嫌な予感がしたが、ただのまるい鍋団子だった。これは当たりだ!ほっとしたが、器に箸を入れると他の具はないのにどろっとしてげんなりした。

「え、え、なにこれ、くにくにするよなにこれこわい!」「辛くね⁉︎これ辛いよ‼︎」「ウボエエッ」

周りはまさに阿鼻叫喚という感じだった。手元が見えなくて食べづらいので、鍋にふたをして一度電気をつけた。

どろっとしたものの正体は、汁に溶けた小麦粉のなにかだった。一杯目は空にするルールだったから仕方なく口をつける。地獄を見た。 謎の甘みが加わったキムチの汁によくわかんないけどほんのり甘い生地が溶けて甘いのに辛くて食感がどろどろしていた。慌ててお茶でのどに流し込んだ。

もう一周してから各自ネタばらしをしたが、なんというかひたすら悪夢だった。溶けた小麦粉のなにかは、たべっこどうぶつとメロンパンのかけら。汁の甘みは、プリン。
まともな具は鍋団子とキムチくらいだった。 カットフルーツ盛り合わせ、からあげクン、いかのちょっと辛い駄菓子、肉まんとカットされていないこんにゃくまるまる一個、オランダせんべい。それにわたしが持って行ったナタデココと干し梅に花麩。

なにが入っているのを知ってから余計に怖くなって、結局全員、甘ったるいキムチ汁を飲みきれずギブアップした。
自分が当たった具の感想を言い合っていると、個人の味覚の差が顕著になって面白かった。フルーツが一番マシだという人もいれば絶対にフルーツだけは無理という意見もあった。
おかげさまで絶不評だったナタデココは汁を吸ってしまったせいで一噛み目に不思議な食感と一緒に絶望的な甘みがやってきたが、それを適当に受け流せれば案外普通だった。
一番ひどそうだったメロンパンも、皮が厚いから中は無事で、思ったほどひどくなかった。
「普通」と言ってもまずい、食べられない、体が受け付けないの三段階に分けると食べられないと体が受け付けないの間くらいだったからあとは察してほしい。

「なんでクリスマスイブに集まって闇鍋なんかしてるんだよ……」
まったくその通りで涙が出そうになった。二度と闇鍋なんかするもんか、本気で思った。

花と銅鑼・GOKURAKU

「面妖」という言葉がすきだ。 ひらがなで書くと、めんよう。丸っこくて捉えどころのない音があやしげで言葉の意味にぴったりだと思う。

そんなあこがれの面妖なお姫さまが率いるバンド、パスピエの武道館公演は異世界のあざやかな幸せの洪水だった。

タイトルは、『GOKURAKU』 辞書で、引いてみる。

極楽

1 《〈梵〉Sukhāvatīの訳》仏語。 阿弥陀仏の浄土。西方十万億土のかなたにあり、広大無辺にして諸事が円満具足し、苦患(くげん)のない、この上なく安楽な世界。浄土教の理想とする仏の国で、念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願力によってこの浄土に往生するという。西方浄土。極楽安養浄土。極楽界。極楽浄土。
2 安楽でなんの心配もない状態や境遇。また、そういう場所。「この世の極楽を味わう」⇔地獄。

アジアを代表する宗教、仏教の最上の世界だ。 「最近ハマってる言葉はご利益です」なんて言いながら東方の神さまみたいな格好をしている大胡田嬢らしいタイトルじゃないだろうか。
デビューから4年、初めての武道館。
バンドにとってすごく特別な公演、節目。

ファンにとっても特別で、とっておきのなにかを期待してしまうけれど、ちっとも裏切られなかった素敵な時間だったと思う。

怪しげな色のレーザーが空気を裂いて客席を照らす中、ステージに当たるスポットライト。キーボードにしたたる汗、せわしげに動く弦の上の指、身体に響くリズミカルなドラム。 高くポップな声がのびやかに会場に響く。

9月にアルバムをお供に決行したツアーの千秋楽である武道館公演だったけれど、新しいアルバムからの曲はあまり多くなかった。 デビューアルバムや以前のアルバムからの人気曲や、大切な曲を少しずつ。 MCをほとんど挟むことなく曲が続く。

ボーカル・大胡田嬢が歌い終え、すうっと舞台裏に消えていった。残された楽器の男性陣はドラムのカウントから一斉に音を弾けさせていく。
エッジィでどこか寂しげなピアノの音から徐々に明るく、にぎやかにうつり変わり、ボーカルの不在を補ってなおキャッチーに盛り上がる。

曲が終わると、背後から光を浴び、新たな衣装をまとったなつき嬢が登場した。

綺麗だけど、すごく卑怯だ。
オーガンジーの、透きとおった布で作られた巫女の上着である白衣が光をキラキラとはね返す。 その変身のためだけに演奏される、夢みたいなBGMを使って、そんな夢みたいな衣装に着替えられてしまったら、ため息をつくしかないだろう。

背後から光を浴びてきらめく彼女の姿を見て膝から崩れそうになった。 くるくると回ったり、ステップを踏むたびにふわふわと揺れる衣装に目を奪われる。
突然現れた銅鑼を思い切りたたき鳴らしたり、数か所に設置されたお立ち台で派手に楽器を演奏してみたり。

おしゃべりなんてほとんど挟まずにテンポよく次々に演奏されていく大好きな曲たちと、ステージ上で紡ぎ出される不思議な世界。

「今日が、きわめてたのしい1日となりますように!」

冒頭に言われた言葉だったけれど、たのしくないわけがなかった。
あっという間だった。 飛んだり跳ねたり叫んだり踊ったり、思い切り心を動かしたりしてものすごくエネルギーを使ったはずだったけれど、疲れを感じる暇はなかった。

花が、ひらいた。
終わった後にパッと頭に浮かんだことばだった。パスピエが鮮明に、はなやかに咲き誇るはじまりの2時間だったと思う。
ありがとうございました。

かえりたいところ

文章の書き出しはいつも迷う。
英語で書いたり話すときみたいに結論からはじめたり、筆を取る(正確には「スマホのキーボードを操作する」だけど)きっかけになった行動やできごとを並べてみたり。

気の利いた書き出しなんて出てこないから、結局いつも同じ、テンプレートにのっとった始まりになってしまっていないかすごく不安になる。だから、ブログを書きはじめてしばらくして何本か記事が並ぶようになったいま、冒頭とタイトルがほかの記事と被ってしまわないか何回も確認している。


6歳で本を読みはじめてから、小学校中学年のときのちょっと文章や詩を書いてみたくなった一時期を除いて、自発的に文章を書いたことはただの一度もなかった。

文体もテーマも文字数も制限なく、思ったことをそのままに形にしていくことは、わたしにとってすごく素敵で心地の良い作業であることを知った。
一本書くだけで気持ちがすっきりするし、自分で感じたなにかを文章にすることをこころの隅に留めながら過ごす日は、背すじをぴんと伸ばしたくなるようなささやかな緊張感がある。


わたしの吐き出す言葉や文章の質は、それまでに見たり読んだりしたものたちの豊かさに等しいと思うのだ。

だから、ここ最近、本に対する考え方がすごく変わった気がする。本は誰かがわたしと同じように文を紡いだものの結晶で、一番わかりやすい教科書だ。

世の中に溢れている書籍の中から、自分の興味関心や感性に合うものを探すのは案外難しい。こうして文章や文学という存在そのものに興味を持つようになって改めて思った。


わたしは、知識を求めて本を探すときや新しいジャンルや作家に出会いたいときは図書館に行くのが好きだ。
図書館では新しい本も古い本も、出版社も関係がない。たくさんの本が並べられた大きな本棚の前に立つと、知りたかったことがらもそれまで知らなかったことも全部全部一緒になってわたしを包む。


わたしが自分で本を選ぶようになって一番最初に通った図書館は学校の中だった。

夏は涼しくて、冬は暖かい。
扉をあけるとあふれだす、本の独特な香り。年月を経て使い込まれているけれど、清潔なまま保たれた建物や設備。いつでも静かにカウンターに座る、やさしい司書さん。

天井の高い、外国の教会のような不思議な雰囲気の図書館。
わたしは中学受験に失敗していて、たまたま入ってしまったその学校が最初から最後までだいっきらいだったけれど、図書館だけは本当に落ち着くことのできる、学校の中で唯一の居場所だった。

学校に行かなくなって、図書館に行けなくことがなってしまったことは悲しい。

最近、公立の図書館に何ヶ所か行ってみたけれど、やはり学校の図書館はわたしにとって特別だと思った。
駅ビル直結の綺麗でにぎやかな図書館も、渋谷のふるびてなんとなく淀んだ地下室のある図書館も魅力的で、一度入ると本をたくさん抱えたくなってしまうけれど。

わたしの通っていた学校は一年に一度、文化祭でしか一般公開はされないが図書館は立ち入り禁止だ。
卒業生にはならなかったから胸を張って楽しく学校を訪れる日はとても遠いと思うけれど、いつか、あの図書館にもう一度行きたい。

青い春ってなに?

最近、10歳とか20歳離れた大人の方とお会いすることがすごく多くて、その度に自分自身の若さを痛いほど感じる。

経験の少なさからくる至らなさを悔しく思うことももちろんあるんだけれど、若さってそれだけで武器で強みで、アイデンティティになるのだ。


わたしは昔から周りに子どもが全然いなくて、親戚の集まりなんていうとわたしの次に若いのが母ということも珍しくなかった。

だから小学校に入る前からなんとなく敬語が使えたし、小学校ではじめて同年代の子たちに囲まれて、学校という環境に圧倒された。
いつも大人が周りにいたから大人からみる「子どもらしい」子どもではあったけど、子どもだけで構成される、中学高校のあの独特なコミュニティにはあまり上手くなじめなかった。


どこにいても「歳のわりにしっかりした」とか「おとなっぽい」なんて言われる性格だけど、それらは全て子どもであるからこその特徴だ。大人っぽい大人は普通の大人である。

わたしは控えめに言っても運動は得意ではないし、勉強はほどほどだ。
おしゃれなことは好きだけど、実は手先もそう器用ではない。
絵を描くのも歌を歌うのも楽器を弾くのも、練習すればすこしはできるかなというくらいで、誇れるほどのものなんかじゃない。
英語は留学して話せるようになったけれど、それでも文法事項は弱いしTOEFLなんて海外の大学に提出したら鼻で笑われるようなスコアだった。

おとなっぽいことが取り柄の器用貧乏なわたしは、大人になったら何が残るんだろう。若さという武器を失ったときに、糧にできるなにかがあるのだろうか。すこし不安になる。

高校でドロップアウトしている時点で社会性はないし、規則的な生活をするのはとても苦手だ。わりとしっかり社会に不適合。

「将来の夢から逆算して行きたい大学と学部を決めよう」なんて進路を決めるときのあれこれでよく見る気がするけど、いま何ができるかすらわかってないのに「(現実的に考えて)なりたい仕事」なんかわかるか阿呆と思う。

芥川龍之介も笑っちゃうくらいのぼんやりとした不安を抱えて悩む姿も、はたから見たら微笑ましいのだろうと思うけれど、すり減っていく若さをお供にわたしはどこに向かっていけばいいんだろうなあ。

大人になったわたし、これを読んでいたらお便りをもらえると嬉しい。よろしく。