宝石は入浴剤
湯に浸かっている。
特に書くことはないんだけれど、とりあえずわたしは理性が飛ぶとねこになってしまうことだけはよくわかった。にゃーんと言ってなにが悪い。にゃおーん。
余裕がある限りはどんなに中身がなくてもいいから日記を書こう、そう思って毎日更新しようとして3日くらいで挫折するのは今度で何回めかしら!生きていても許されるくらいに美しくなりたい!
とりあえずわたしは図書館の本を延滞しがちで、その割に人の文章を読んでもっともっと勉強しなくてはと反省することが多い。
図書館の雑誌コーナーは日当たりが良くてパーテーションもガラスだから気持ちがいい、嘘と秘密は宝石みたいでここちがいい。
あまいしゅわしゅわのジュースが飲みたい(京ゆずmixソーダ)、キラキラのアイシャドウがほしい、そんな一日だった
燃え尽きる?ない
書くことを続けるということは非常に難しい。
特にわたしのようにぼんやりと日常を生きているだけの人間が、数百字で切り出すことのできるような鮮やかな光景に出くわすことはすくないもの。
2017年は受験が終わって、大学に胸を膨らませて入ったのに気がついたら受験期よりずっと目に光の宿らない生活をしていましたね。さようなら2017年、挨拶が遅れたけどどうぞよろしく2018年。
こんな組織辞めてやる!やっぱりもうすこし続ける!なんてこねこが自分のしっぽを追い回すように同じ場所をぐるぐると回り続けていたらあっというまに自由と開拓に満ちた大学生活は終わってしまうのかもしれないけど、それでもわたしはもうすこししがみついていたいです。
先日、はじめてお話を書いて、人に披露したんです。
900字くらいのみじかい寸劇で、坂元裕二と江國香織を足して2で割って5倍に薄めたような作品だったけど、それでも好きだと言ってくれる人がいて、とてもとても気持ちがよかった。
わたしくらいの年だとやはり自分の身を削ってダシをとらないと何もかけないので、ようやく自分自身の生き方が褒められたような気がして、ね。
邪道でもなんでもいいから、生き抜きたい、という気持ちでいっぱいです。
人生の削り節だけじゃなくて、もっと外の世界のことを切り取った文章を今年は書いていきたいな。
どうぞよしなに。
季節は次々死んでいく
夏が死んだ。たぶんしばらくは戻ってこない。
冬生まれのわたしはやっぱりどうしようもなく寒い日が好きで、ぶあついコートを着て、マフラーをぐるぐる巻きにして、待ち合わせた友だちとか好きなひとと歩きながら「さむいね〜」って困ったような顔で笑いあうあの瞬間をたまらなく愛おしいと思うのだ。
だから、書かなきゃ。いまのわたしが考えたなにかを正直に誠実に、きちんと書いて、残さなくてはいけない。そう思った。
なにもせずにぼんやり何者でもないただの大人になってあとなら泣き言を言うくらいなら、せいぜいまだ何者かになれるかもしれないと思っているこの瞬間にもがいてあがいてそれからあきらめをつけたいもの。
わたしがはじめて"いつか自分も死んでこの意識はなくなってしまう"ということに気がついたのは小学校3年生か4年生のときだった。朝の通学電車のなかで梨木香歩の『西の魔女が死んだ』を読んでいた。
学校の最寄りについて、ホーム階から改札階へのエスカレーターに乗りながら自分の人生は永遠に続く物語ではないこと、わたしの意識は時間を超越した俯瞰的な語り手ではなく主観を持った人間のものであることに朝の陽射しを受けた明るいエスカレーターに乗りながら突然気がついてしまった。自分の輪郭がなくなって、世界がぐらぐらした。とっても怖かった。
それ以降、地下鉄とかお風呂とかベッドの上とか、暗い場所や狭い場所にいるとふと死ぬことを思い出して怖くなってしまう期間が6年くらい続いた。つまり、おさまってきたのはつい最近のことだ。
おさまったいまでも、本当にときどき一度死んだらもう自分は戻ってこないであろうことが怖くて怖くて仕方なくなるときがある。宇宙がいつかはなくなることも怖い、永遠に無くならないことも怖い。いまも、正直書きながらちょっと輪郭をなくすトリガーを引きそうになる。
けれど、有限だからこそ、一回限りであるからこそ、わたし自身の感じたこと、考えたことはそれだけで特別で大切なものになる可能性がとても高いんじゃないかと最近は思うのだ。
だから荒削りでもなんでもいいからとりあえず文章をきちんと書いて出そうと思って書いただけの文章です。
渋谷・名曲喫茶ライオン
待ち合わせ時間までに余裕があったので、友達と遊ぶ前に乗り換え駅の渋谷でずっと気になっていた名曲喫茶ライオンに小一時間ほど寄ってきた。
京都の喫茶ソワレを彷彿とさせるほんのり青い照明の、薄暗い店内の奥には2,3メートルほどのオルガンのような木製のスピーカーと大量のレコードの入った棚があり、一階席の座席はほとんど二人掛けか一人掛けでスピーカーに背を向けて座ることがないように配置されていた。
一階席の適当な一人掛けに座ってから気づいたが、二階席・三階席があり、わたしのあとに来た数人のお客はほとんど上の席に直行していた。オルガンのようなスピーカーと二階席の位置関係がわたしが通っていた学校の講堂みたいで、朝の礼拝を思い出してすこししんみりした。
お水と一緒にグッとくるデザインの演奏プログラムを渡されて一人でこっそり盛り上がってしまった。表紙の手書き感の強い飾り文字に、中のキャッチコピー!
"真のHiFi","(帝都随一を誇る)"なんて言葉が踊るプログラムなんて、ドキドキするしかない。
携帯電話使用禁止・撮影禁止だったのでクリームソーダも今回は文章のみでご報告。
ホットコーヒーが500円の名曲喫茶ライオンのクリームソーダは720円。やや高めだが渋谷は茶亭羽當(紅茶950円)もあるし、そもそも物価高めの町なので妥当な価格と言えるだろう。
グラスは、高さ10cmほどのロックグラス!
田舎の祖父母の家とかで出てくるような、曲線の意匠が彫られた分厚いグラスだった。少なくとも都内近郊の喫茶店ではとても珍しいはず。
ソーダ水はスタンダードな緑。炭酸は弱めで、口に含むとちょっと主張を感じる程度だった。色が濃いわりにほとんど甘くない。
甘くないソーダ水は先日訪ねた荻窪の珈里亜に続いて二店目で、シロップのあまーい味を想定して飲むとちょっとふしぎな気持ちになる。使っているのがかき氷シロップじゃないのだろうか。
上に乗ったアイスクリームはまんまるで、控えめな大きさだったが脂肪分が多いわけでもしゃりしゃりなわけでもないなめらかなアイスだった。
アイスが溶けるのはゆっくりめで、甘さ控えめのソーダ水は続けて飲むと水のようだけれど、しばらく時間をおいてもうひと口飲むとほんのり甘さを感じるようなゆっくり飲むのに適したクリームソーダだった。
音の良いクラシックに耳を傾けながら気持ちよくぼんやりするのにも、読書に集中するのにも向いている喫茶店だったのでおそらくまた行く。今度は二階席で。
明け方から送信
こんにちは、おはようございます、こんばんは。ただいまの時刻は午前5時6分、明け方です。
試験勉強をしていて、ひと段落したので仮眠を取ろうとしたのですがカフェインの影響でどうにも眠れなくて、仕方なく買ったまま置いておいた坂元裕二さんの『初恋と不倫』という往復書簡形式の本を手に取ったらどうにもこうにもエモーショナルになってしまって、どうしようもなくなってしまったのでこうして文字を書いています。わたし、往復書簡に弱いんですよね。手紙と手紙、メールとメールの間に現実では何が起こっていたのかは行間からしか読み取れない、現実から一歩離れた虚構らしい感じが好きなんだと思います。
わたしのすごく嫌いなアニメがあるんですけど、キャラクターとか、演出とか、そういうのは大好きで、だからこそ納得のいかない話の進め方をして、ひどく理不尽な終わり方をしたのが許せなくて大嫌いなんですが、そのアニメにね、こういう口上があるんです。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。」
何者にもなれない、ってどういうことかよくわからないでしょう。でも、すごくわかるんです。わたしはずっとずっと自分の輪郭がわからないままぼんやり生きていて、きっとこのまま、「自分」を手に入れて、名前が残るような「あの人」になることがないまま、無名の誰かとしてぼんやり死んでしまうんだろうなって実感があって。
それが、「何者にもなれない」ってことなんだろうなって。
ああ、何を書きたいかよくわからなくなってきちゃいました。
けど、けど、わたしは何者にもなれないかもしれないけど、なら、無名の人のままでいいから、せめてわたしがいたんだって痕跡をどこかに残したいなって。100年たったらいま周りにいる人はみんな死んでるし、1000年たったら化石になっちゃうんですけど。それでもいいから、残せたらなって思う。
お芝居って見たことないんですけど、不思議と好きな作家はみんな演劇畑出身の人で。どうしてだろうって考えて、出た結論が、きっとわたしは「今」に必死でしがみついていて、飾り気のない、それでもうつくしい「今」が好きで好きでしょうがないんだろうなってことで。だから、たぶん生の人間が動いて話して生の人間に見せるお芝居の臨場感がわかっている人たちの書く生きていることのスピード感と鮮やかさが好きなんだろうなって。
だから、きっとそういうのがいいんだろうなって思います。とりあえず今はそんな感じで。脚本家になりたいとか、そういう宣言はしません。好きです、それだけ。