平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

恋愛がわからない ver.2.0

 

映画「愛がなんだ」の東大でのトークセッションつき上映会に参加してきた。

原作者の角田光代さんと監督の今泉力哉さんに東大助教授の熊谷先生を交えた鼎談で、非常に興味深いイベントだった。

4月の公開当初は件のゴミのような元彼といちばんズブズブで修羅場のなかでもがいていた時期で、「いま観に行ったら死ぬやつ」とアラートが自分のなかで鳴り響いていたので観に行けなかった。別れてからある程度の時間が経ち、元彼がおもしろ恋愛体験談としての意味くらいしかなくなったこの時期にちょうどイベントが開催されることを知ったので速攻応募し、当選のメールが届いてガッツポーズをとった。

実際に参加し映画を観て、周りの人や制作者の話を聞いていろいろ考えたことがあった。

 

恋愛にいちばん悩んでいた2月のあたまにnoteにひっそり投稿したものの諸事情あってその日のうちにゴミの彼氏にバレて削除させられた恋愛についての記事への追記を今回の感想に代える。

 

 

恋愛がわからない

 

noteへのはじめての投稿はファッション系にしようと思っていたのだが、ツイッターに投げるには少々長すぎ、かつセンシティブな内容なのでnoteに載せる。

昨年の8月あたりから施行に向けて準備が行われてきたようだが、千葉県で同性カップルや別姓維持のための事実婚をするカップルを結婚に相当する関係と認めるパートナー制度が今日から正式に始まったという報道を目にした。

千葉市事実婚も結婚相当と認定|NHK 首都圏のニュース(2019年1月29日閲覧)

わたし自身は女性の身体で生まれ女性の性自認を持ち男性を恋愛対象とするヘテロセクシャルLGBTにはまったく該当しないのだが、事実婚および同性婚が認められるか否かはいくつかの観点から決して他人事ではないと考えている。

 

別姓を選択したい

結婚時に選択的夫婦別姓が認められさえすればいいのだが、わたしは19歳現在、結婚しても自分の姓を変えたくないと思っている。

心底いまの自分の名前が好きだから、変えたくない。

選択的夫婦別姓など導入せずとも結婚相手が自分の姓に変えてくれれば済むが、「自分の名前が好きだから」という理由で相手に苗字変更に伴う諸々の事務的な手続きを負担させるのは気が引ける。

同時に、好きな人と生活を共にするために必須でもないし変えたくもないのに自分が苗字を変えて諸手続きを迫られるのも違うと思うのだ。

3組に1組が離婚するということは34%の人は将来的に再び姓を変える必要があるのに、わざわざ名前を変えたくない。

「苗字」という最強のお揃いアイテムが欲しいという意見を目にしたこともあり、それについてはなるほどと思うところもあったがお揃いにしたい人がすれば良いのではないだろうか。

留学していたニュージーランドのホストファミリーは夫婦別姓を選択しており、兄妹で姓が違った(兄は父の姓、妹は母の姓を名乗っていた)がそれが原因で家族間に亀裂が生じているような様子は半年以上一緒に暮らしても見られなかった。

 

恋愛結婚以外の選択肢が欲しい

お見合いがすっかり廃れ、大半の夫婦は交際関係の発展として結婚関係を選択し恋人を人生のパートナーとしている。

人生のパートナーが、親友ではいけないのだろうか。

たいした知識があるわけではないが、現行の制度では結婚関係にないパートナーは控除等の税制優遇が受けられなかったり、親族として認められず事故や事件などの緊急時にできることが限られると聞く。

結婚関係を結べるのは異性に限られることから、異性でないと法的にフルな支援を受けて人生を共に歩むことはできない。

逃げ恥のような最大限に効率よく生きるための契約結婚だって不可能ではないが、まだあくまで裏技の域を出ないし、それも異性に限られている。

同性婚が認められれば、恋愛をしなくても同性の親友を生涯のパートナーにする選択肢さえ認められるのではないだろうか。少なくともわたしはそう期待している。

 

恋愛ってなに

そもそも、結婚して人生を共に歩む相手を見つけるための重要な条件となっている(と見受けられる)恋愛がよくわからない。

該当するセクシャリティが見当たらないためおそらくセクシャルマイノリティーではないのだが、わたしは好きになる相手と性欲の対象になる相手が異なる。一年ほどずっと悩んでいる。

 

考え方や趣味が近くて話していて楽しい、見た目も少なくとも嫌悪感を抱かない程度には好ましいため一緒にいたい、会いたいと思う異性のことをどうしても性的対象にできない。

心の底から好きなのにセックスは無理だしキスをする想像すらできない男性が複数人いる。

彼らと付き合えば間違いなくわたしは楽しいのだが、性行為に及べないため相手がヘテロセクシャルだった場合不満を抱かせることは間違いない。

 

性欲がなければ良いのだが、性欲がないわけでも、性行為が嫌いなわけでも決してないのだ。そのため性行為なしの交際を了承してもらっても、わたしにも性欲が発生するので辛い。

交際相手には誠実でありたいので、こっそりセフレを持つのも嫌だし、自分の考え方が相手に認めてもらえる価値観だとは思えないので打ち明けられる気がしない。知らない相手とただただ性行為をしたいと感じるわけでもない。

 

ただ、性欲を感じる相手が大抵性格的には苦手もしくは嫌いなタイプなので趣味が合わず考え方も合わず、性欲を満たすことを優先させる付き合いにも無理がある。

おそらく性的にも好み(これは細かい条件を言語化できない)で似ている価値観の異性を見つけられればそれで済むだけの話で、書いていると自分がただただ守備範囲が狭いだけのクソ女に思えてきたが、とにかく自分が好きだと思える男性と性的な関係に発展できないし、性的な関係に発展できる男性は好きになれないので困っている。

好意に性欲が伴う感情を恋愛感情と呼ぶのだと思っているのだが、いつまで経っても性欲が伴わないまま好意だけが増していく。好意が一般的な友人に対するそれを上回った際にどうしたらいいかわからない。

異性の親友は存在しえたとしても恋人より優先される存在にはならないし、わたしは相手の望みに応えられる恋人にはなれない。

そのためおそらく性的に好みで価値観の合う男性と出会って共に好意を抱き特別な関係になれるだけの環境が整うという奇跡が発生しない限り、わたしは恋愛の結末としての結婚はできず恋愛によって人生のパートナーを見つけることはできない。

恋愛以外の手段を用いてパートナーを見つけられた場合、結婚と同様の支援を受けられるといいと思うのでパートナー制度は決して他人事ではないし、誰も損害を被らないと思うのでより多くの自治体で認められることを願っている。

 

 

恋愛がわからない Ver.2.0

 

結婚へのモチベーション

読み返すと、結婚欲がびっくりするほど強い。

それは今でも変わらない。自分自身が変化を好みさまざまな環境を数年で転々としているので、自分の帰る場所だけは信頼と居心地の良さが安定して築かれる環境でありたいのだ。

ここ数ヶ月でなぜか劇的に改善されたが、家族が苦手だという気持ちが思春期前後からずっとあった。わたしの家族は賢くておおむね成功者に分類される人間ではあるが、グイグイいく姿勢や周りの迷惑を顧みない(比較的)傾向があるのが苦手だと思っていた。

あいちトリエンナーレ田中功起さんの作品にも同様の記述があったと記憶しているが、血縁関係に基づく家族は人を選ばず(生まれるのだから)、自分の意思によって所属を変更することがほとんどできないのに最小かつ最も身近なコミュニティとして想定されている。

そういう家族の要素がひどく窮屈に感じられ、いっしょに生き抜くひとは自らの意思で選び選ばれたいという気持ちが強くある。

家族へのもやもやが急速に晴れたいまでも、その気持ちはかわらないのだ。

 

そういう保守的と言っても良い価値観が根本的にあるのに、「女は押し倒されるもの」「女は家を守るもの」という保守的なエロスのシナリオやセクシャリティのシナリオにどうしても馴染めないからこそ、上記の噛み合わなさは生まれているのだろう。

女は家を守るもの、という価値観はすくなくともわたしの世代では相当薄まってきており、おいそれと「専業主婦になりたいの」なんて言えない気配が漂っているのをたしかに感じるが、それでも結婚することが幸せという価値観は根底として流れているように思う。結婚すれば幸せであり続けられるわけではないとみんなが気づきはじめてはいるものの、それでも恋愛はポジティブな人間関係であり、その極北である結婚は当然に幸せなものであると信じたいのは誰だって同じではないか。主語が大きくなってきた。

 

「愛がなんだ」のテルコの価値観

映画の話を少々すると、どこまでも押し倒されるもの、家を守るものとしての立場を貫きとするテルコは、一見どこまでも保守的で前時代の価値観に囚われているように思えるが、きっとそうではないのだ。とりわけ積極的なわけでもなく、学歴や眼を見張るような美貌を持たず気遣いが得意なテルコがいちばん得意なのはきっと家庭を守ることで、当人も尽くすことに幸せを感じるタイプなのだ、そういう人がいてもいいとわたしは思う。

実際マモちゃんはそういうテルコのお節介尽くし体質を疎ましく思っていたような描写があるわけで、彼女は他者や社会がそれを望まない環境においても自身の能力を発揮しようとする強い女だ。

 

自身の才能を評価してくれない男に、彼が振り向かなくても、隣にいられなくても可能な限り近くに留まり彼女にとって最善の形で人生を捧げようとするテルコは、すでに自身の献身の対価として相手へなにかを求める恋愛のフェーズにはいない。

「愛がなんだ!」と叫ぶ彼女の「愛」はきっと献身の見返りとしての相手の永続的な好意を指していて、それを否定した彼女は幸せな恋愛のすえに幸せな家庭を築く…といういわゆるロマンティックラブイデオロギーにのっとらない価値観にある。

 

わたしの価値観を対比する

アンチロマンティックイデオロギーを唱えながらも恋≒性愛への憧れと結婚への憧れを無関係のものとして切り離せずにいるわたしは、きっとまだどこかへの途上にいる。

恋愛を好意+性的衝動と定義するならば、固定化された人間関係のなかに衝動が存在しづらい以上同じ環境に留まり続けていては恋愛は発生しづらいだろう。(なんらかのきっかけで衝動が生まれることはまああるのであくまでしづらい、という程度にとどめる)

 

たくさんの人と出会って、性的衝動の伴う好意を抱くか否か、衝動が失速してもなお持続できる関係の構築が可能であるのかを考えつづけいつかのタイミングで自分の結論を出すことが、恋愛を理解するということなのだろうと思う。

 

 

結論

恋愛がわからないわたしへ

 

男女問わず人と出会える新しい環境を定期的に設けながら

 

①恋愛感情=性的衝動を伴う好意 を人に抱けるのか

②その好意を特定の人と相互に抱くことができるのか

③性的衝動が失速してもなお親密な関係を続けられるのか

 

④性的衝動が挟まらない好意においても性的衝動が関わる関係と同程度の距離まで接近が可能か

 

を実践を通して考えてください。5年くらいで。

人と関わらずに生きていくことは不可能であるし、親密な人間が不在のまま楽しく生きていけるタイプでもない。好意だけでなく性欲も影響する異性との関係性をいかに構築するかは、人生で早めに把握しておきたいところだ。がんばれ。