魔法使いでなければ花束をください
14歳のときに知り合って、いちばん多感な時期を一緒にすごした友人に久しぶりに会い、すこしも変わりなく原宿や表参道を歩いた。
成人祝いにずっと欲しかったコスメデコルテのアイシャドウをもらった。渡される直前に、春になったからあたらしいアイシャドウが欲しいけれど、色味が強いのはいやだからキラキラ感や透明感のあるものがいい、と話していたので本当にいままさに欲しいもので彼女のなかのわたし像と現実のわたしのあまりのズレのなさに驚いてしまう。彼女はいつもわたしが憧れていて欲しいと言うのになんとなく手が出なくて買わないものをくれる。
それは本当にすごいことで、頭の中で手に入れる想像をしていただけなのに本当に手の中に実物が現れてしまう。ほとんど魔法だとわたしは思う。
そういう魔法を使えるのは、人生のなかで特別に濃い時間を一緒に過ごしてきたからというだけでなく、彼女の観察力や細やかな気遣いがあるからでもあり、おそらくある種の才能が必要である。
わたしも魔法のようなチョイスをしたいけれど、すてきなプレゼントはそうそう簡単にできるものではないのだ、きっと。
ストレートにひとの心を撃ち抜くプレゼントは難しくても、せめて外さないプレゼントがしたい。
わたしなら、わたしならなんだろう?
すこし考えて、ああ、花だ、と思った。
花についてとくべつ詳しいわけではないが、花を飾る生活が好きだ。
花は本当に、ただ生活する上ではいっさい役に立たない。ただ数日間食卓や玄関、部屋のすみに置かれるだけだ。
花を買うことは、数日で絶える美しさにお金を払うことで、そういう功利性の一切ないものにお金を払う贅沢が好きだ。家に帰って花を生けたあとは、ただ生活をしているとふと視界の隅に花が、純粋に美しいものが目にはいる瞬間があって、その瞬間の豊かさが好きだ。
生きるうえで役には立たないし、たいていは数日で散ってしまう。しかも、自分が気づかなければただそこにあるだけで終わってしまう。アレルギーでもない限り、置いておいても迷惑になることなんてほとんどないというのも優れている。なんとつつましいのだろう。そのつつましい主張のなさにはある種の傲慢ささえ感じられるほどだ。
そんな贅沢を、人からもらう幸せ!
想定外の贅沢ほどお得な幸せがあるだろうか。
魔法使い以外はみな、花束を渡せばいいのだ。そのひとのイメージによく合う、華やかできれいな花束を。
プレゼントの質は、渡すものそのものの価値ではなくて、渡す人のことを考えて何がよいのか考える時間に左右されるとわたしは思っている。
迷惑をかけない贅沢に、渡すひとを大切に思う気持ちが上乗せされればそれはもう魔法のプレゼントを除けば最強ではないだろうか。
だれかに花束をあげたくなった。
散歩の日のこと
中目黒でコースのランチを食べた。スパークリングワイン一杯で真っ赤になって、気分良く目黒川を歩いた。
ふらりと寄った駅前の書店でロマンスの辞典という本を見つけ、真剣に購入するか迷ったが購入の動機が「こんな本が本棚にある女は可愛いかもしれない」というひどく不純で下品なものだったので思いとどまった。
読書家の美しい友人の顔を思い浮かべながら、きっと彼女はそんな理由でこんな俗っぽい本は買わないだろうと思い自分を恥じる。たしか彼女は彼女で好きな男の勧めるままに本を読み続け、気がついたら三島由紀夫の虜になっていたという不思議な読書体験をバックグラウンドに持つ女性だが、それでもわたしの乱読よりはおそらくいくぶんか質は高い。
中目黒から移動して、年末ぶりにとある古本屋に行き本を何冊も買った。店主と顔なじみになったその古本屋に行くのはまだ四度目だが、はやく馴染みの古本屋と呼びたい。
水面下
手をさしのべない優しさを持つ彼は思慮深く、大人で、ひどく残酷だ。
週二回ほど朝八時過ぎに家を出る甘やかされた大学生活さえまともに送れない、社会に適合できないわたしの書く文章と価値観を好きだと言ってくれるひとびとの存在にどこまでも救われている。
文章を本気で書きはじめて、生きやすくなった。
文章を書くことは自分の弱さや頭の悪さに対面することでもあり、ときに大きな苦痛を伴うが、それでもわたしは書きたい。それはわたしの文章を愛してくれるひとびとに応えるためで、わたし自身を愛するためでもある。
どれだけ生きるのがつらくても第三者は手を差しのべられない瞬間がある。いまわたしが面しているのはそういう局面で、必死にもがいて水面を目指すしかない。「僕は踏み込めないけど、幸せになってほしい」という彼の言葉がいまはただひたすらに苦しい。
アノニマス・ラジオステーション
あなたのことを好きだと思った。不特定のあなた。どんよりとした吐き気と眠気のなかで、わたしはいま愛に満ちている。
はじめての場所ではひどく気を張る。特に自分が受け入れられたい場所ではどのように振る舞えばいいのかを掴みたくて必死で周りの様子をうかがってしまうから、その場をあとにする頃にはひどく疲れている。振る舞い方に正解などないのに、相手への憧れや一方的に抱いていた好意が大きければ大きいほど相手の期待に添えていないのではないかと不安になりあまりの所在のなさに吐き気を催す。「今日も今日とて社会に適合できなかった」宛先もなく吐き出してようやくほんのすこしの安心を得る。わたしのことなど誰も気にしていない、良い意味で。言い聞かせるが理解しきれず目が冴える。
バーモント・キッス
朝目覚めると身体が重く、すぐにまた暗闇のような眠りに身を委ねた。ふたたび目を覚ますとすでに時刻は3限が始まる13時を回っており、ああまた睡魔に負けて授業をサボってしまった、と胸と喉のあいだがつまるいやな感覚に包まれた。
身体はあいかわらず鉛のようで、きっとこれは熱が出ているから仕方がないと自分に言い訳をし布団のなかで寝返りを打った。
13時半、諦めて身体を起こす。首元が熱い。
リビングに行きコップに水を注いで口に流し込みながら熱を測った。37.5度。本当に熱があった。言い訳と正当な弁解の区別がつかないわたしは面白くなってひとりでにんまりとした。
個別指導の講師のアルバイトで崖っぷちの大学受験生を5人も持っているので、さすがに1時間前に欠勤の連絡はできず14時半には家を出なくてはいけなかった。
あきらめて薬の入っている棚を一通り探したが解熱剤もマスクも見当たらなかった。
ヒートテックを上下とも着込み、できるだけ暖かく楽な格好をして家を出た。すこしでも元気が出るようにと昨日買った穏やかなブラウンの山羊皮のショートブーツを下ろした。
駅のキオスクでヨーグルト味のプロテインバーとピンク色でない小さめマスクを買う。
どうして世の中の小さめマスクの8割はピンク色なのだろう。ふつうの大きさのマスクは布が余って顔の上でがさがさするので小さめをつけたいのに、苦手なピンク色ばかりでいつも困ってしまう。グレーや青、緑ばかりをきているのに顔面の下半分だけ薄いピンク色なのはおかしいだろう。
女ばかりがつけるから可愛いピンクにしておけばいいだろうというダサピンク現象でなく、ふつうサイズと識別するために着色をしなければいけないから肌なじみのいいピンク色が選ばれたと信じていたい。
電車を待ちながら身体が熱くなったがヒートテックのせいか熱のせいかわからなかった。
咳は出ないし鼻水が出るのはいつものことで、別段変わった様子はない。
塾につきタイムカードを切り白衣を着た。
パソコンのモニターの前に座り授業準備をしながら、ああこれは体調が悪いぞと気がついた。なにがどうなったと言葉にするのはむずかしいが、いつもやっているルーティンワークがスムーズにできなかった。視界と感覚のあいだに2cmくらいの壁があるようなこころもとなさがつねに伴い、無駄な動作が連なる。手にうまく力が入らない。7時間の予定の勤務だったが、2時間働いたところで上司に相談をし4時間で帰らせてもらうことにした。
帰宅したのち、貯めに貯めていた詩と小説の同人の原稿を上げ、ひとりでもりもりと食事をした。
実体のない吐き気がつきまとい、不快感がひどいがこういうときでもふつうに食事ができてしまうのがわたしのいいところでもあり悪いところでもある。
布団を持ってきてソファに寝転がりながら家族の帰りを待ち、母と話してから自分の部屋に撤退し今に至る。
胸元につかえる息苦しさから今夜は何度もため息をついている。
身体の熱さや気怠さが自分の輪郭を際立たせ、生身の人間であることを嫌でも実感してしまう。
わたしが「死にたい」と口にすれば悲しむ人が何人もいる。それだけわたしはきちんとこの人生で人と繋がりを得られているということで、生きることにある程度成功していると言える。
それでも生きるのがつらいのは自分でもどうしてかわからない。自殺を実行する気などほとんどないのに、便利な記号として「死にたい」と言ってしまう。
きっとほんとうは死にたくないなんてないのだ、世の中の100点満点になれない、偏差値50すら取れているかわからない○○○○○という名前を持った前歯の主張がちょっと強い若い女の身体と人生がなければこの視点(主観)は成立しないという現実にうんざりしてしまうことがあるだけなのだと思う。
この世界が好きだから、もう少しわたしも世界に好かれたかったなあと考えながら微かに熱い身体を柔らかな布団に沈める。
土曜の25時を過ぎたと気づいてニッポン放送にチャンネルを合わせた。オードリーのオールナイトニッポンが深夜のわたしを現実に繋ぎ止める。
無罪
気温が不安定だったり日照時間が短くなったりしている季節だからか、メンタルが少々不安定だ。
先日、このブログを開設して3年が経ったと通知が来て心底おどろいた。言われてみればそれくらいの時間は経過しているのだが、昨日と今日の連続をただぼんやりとひたすらに反復しているとあっというまに時間は流れて行ってしまう。
よし、ブログをはじめよう、と思った瞬間のことをよく覚えている。
高校2年生の冬で、9か月の留学から帰ってきたわたしはまるまると太り、もともと大して好きではなかった日本の学校にふたたびなじむことに完全に失敗して毎日死にそうな日々を過ごしていた。
死にたくて泣きわめき続けて、母にも愛想をつかされてお前は病気だと心療内科に引っ張られて診察を受けたら「その生育環境でいまの環境にいたらだれでも死にたくなります、精神疾患ではありません」とけんもほろろにあしらわれて薬ももらわずに病院を出た。
なんども死んでしまおうかと考えて、そのたびに自分の外側が急激に薄くなってぞっとするほど空気が冷たくなりおそろしくなって実行に移すのをやめていた。
冷たい空気に意識の何割かを支配されて、輪郭がひどく薄れていた時期だったが、空気がいつもより近くにあったからこそ感じられたきらめきもたくさんあったのだといまは思う。
わたしは不登校だったがひきこもりではなかったので、学校の授業には行かなくてもピアノのレッスンには毎週行っていた。
17時くらいから1時間ほど先生のおうちでピアノを弾いて、帰りは家まで20分の道のりを歩いていた。12月にもなるとそんなに遅い時間ではないはずなのに外はもう真っ暗になっていて、冷たい風が頬を刺す。高橋優を聞きながらふと空を見上げたらあまりにも星がきれいで、冷たい風に輪郭を晒されながらあの愛おしい冬が来たのだなと泣きそうになった。
ああ生きている、と痛いほど思った。
同時に、こんなに季節が美しいなら生きないと、とも思った。
そして、どうしてもどうしてもこの目に見えないきらめきの美しさをすこしでもいいから取っておきたくて、ああブログを書こう、と決めた。
それから3年経って、わたしをとりまくあらゆる環境は圧倒的な好転を遂げた。
恵まれた環境で優雅に自由に生活しているはずなのに、どうしてかいまも息が苦しい。
息苦しさをこうして文章で吐き出せるほどの(精神的?文学的?)体力も身につけたのに、がけっぷちに立たされていたときに頻繁に感じていた切りつけられる痛みに近い感動は書けば書くほど遠ざかっていく。
モラトリアムのただなかにいるわたしは、その水圧によって時間をかけてしずかに縮められ、輪郭が徐々に厚みを増している。ある方面ではすこしずつ成長しているのかもしれないが、おそらく同時にすこしずつ鈍くなりつづけている。
このぬるくとろみのある液体に漬けられているような生活の終焉のその先に待っているなにかに、期待と不安の両方を抱いている。
どうか、あまりがっかりすることがありませんように。いつも通りに祈りで文を締めくくる。
プリズム
わたしの日々は拡散し続けている。
インターネットでバズを起こすわけではない、新たなひとと出会い続けているわけでもない。
集約の対義語としての拡散だ。
わたしの日々は、拡散し続けている。
現在、大学に入って1年8ヶ月ほどが経とうとしている。
ゼミの選考が控えていたり、ひとつ上の学年が就活を本格的に始めていたりと、自分の舵を切る先について考えさせられることが多い。
そうすると、自分の大学生活、ひいては人生といったどこかぼんやりとした、けれど大きなことばで表現されるもののことばかりが気になってしまう。
大きなものはむずかしいので細かい要素に分解して考えたい。
しかし、どこから分解していいのかわからない。
10年後のなりたい姿?自分が本当に好きだと思えるもの?はたまた現状?
どれを取ってもよくわからないことばかりで、結局思考することを諦めなあなあにして目の前の生活をただ消化するだけの日々に陥る。
ほんとうは、本だって読まなくてはいけない(読みたい)し、映画だって観なくてはいけない(観たい)名作がまだまだたくさんあるし、服だって髪型だって体型だって諦めたくない。喫茶店もパフェも気の利いた店も、諦めたくないのだ。
現状本分である法律学の勉強だって、しなくていいと思っているわけではない。ちゃんと取り組めば楽しくなることだってうすうすわかっている。ただ、したいことがほかにもっとたくさんあって最終的になかなか手が回せないのだ、ほんとうに。
幼い頃から、いろんなものを後回しにしてきた自覚はある。
宿題、時間割、お片づけ、歯みがき、家事。
ぎりぎりになってから取り組んでも勉強だけはなんとか上位1〜20%くらいに入ることができていたからまわりの大人は勉強以外のことにも甘くて、だれにも指摘されないまま結局大学進学だって勉強したいと思っていた分野の学部より、自分の人生のリスクを取ることを後回しにできる学部を選んだ。
結果、いまの大学を選んで良かったとは本心から思っているけれどいまの学部に来た意味は未だ見出せず、行かなかった芸大、行けなかった東大にありえたはずの輝きを落としてきたような、ほんのり苦い気持ちになってしまっている。
まわりの大人のせいにしたいわけではないのだ、ただ、自分が自覚するまでにいまのいままで時間がかかったということで。
好きなものの探求だってより楽なもの楽なものへと流れていって、結局Netflixですぐに観られる名作映画やアニメだけを観て、文豪の本は買うだけ買って読みきらずに満足している。
美術館だって気になった企画展をふらふら回るだけで詳しくなった気になって、美術史の知識は大学受験に毛が生えた程度しかない、服や化粧品だってこだわりがあるふりをしながら結局惚れ込んだ高級ブランドなんてなくて古着やプチプラでなんとなく生きているのだ、だから気になっている喫茶店やカフェの季節限定メニューなんてわざわざ行けない。
なんにでもすこしだけ詳しくて、なんにも知らないわたしの日々は、拡散を続けている。
世渡りのうまくないわたしはジェネラリストよりスペシャリストになりたいのだ、もう後回しにしたくないのにまた散らかった部屋を見てため息をつき、あしたの自分に期待をしてしまう。