平静とロマン

平成生まれの大正浪漫

殻にこもる週の記録

 

 

ずっと自宅にいて誰とも顔を合わせないので、圧倒的に刺激が足りていない。

いつだったか忘れたが、夜中にうんざりしてベランダで日記を書いた。

 

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5月10日 日曜日

ゆるやかにカーブを描く川に沿って整備された道を歩いていた途中だったので、前に進むにしろ踵を返すにしろ自分の足を動かすほかなかったが、自分自身の力を使わなければどこへも行けないという事実に全身の力が抜けてしまいそうだった。

なにもない道を歩き続けることに、わたしは心底飽きてしまった。

 

ときどき、自分をどう扱えばいいのか自分でもわからなくなってしまうことがある。始末にこまるわたしは前触れもなくわたしを襲って、そのたびにだれかに迷惑をかける。
結局元来た道を素直に戻ることにして、その足でふと思いついて茶葉を買いに行った。

思いつきで出かけることにさえ背徳を感じる世の中に、わたしは適応しつつある。

 


5月11日 月曜日
朝はやく起きて軽い運動をしてから朝食にチーズケーキを食べた。

それから洗濯機を回し、洗い上がった部屋着やシーツを干すために窓を開けて外に出ると、物憂さのすこしもない陽射しにあたった。近くに咲くツツジだろうか、甘い花の香りがすぐそこまで漂ってきて、晴れやかな季節が肌で感じられた。玄関の扉を開けなくとも季節を知ることはできる。

 

完璧な晴天、完璧なステイホーム。

すこやかに家を保つこと。気に入った家具に身を委ねて好みの香りで胸を満たし、一人でもにこやかに過ごすこと。

これまでの日々でもっとも凪いだ生活だ。欠くことのない穏やかさは徐々にわたしを丸めていく。このまま滑らかになってしまえばわたしはどこにも留まれなくなる気がしている。

おにぎりのようにごろごろごろごろ転がっていく人になりはてる微かな不穏を感じる。

 

 

5月12日 火曜日
目覚まし時計が鳴っているはずなのに気がつかずに寝続けることが3, 4日に1度あるのだが、今日はその日だった。 

午前10時前に布団を出てゆるゆると身体を起動し、午前中に来ると聞いていた荷物を待っていたらあっという間に昼過ぎになっていた。

 

家でさほどかわり映えのしない自分を眺め続けることに飽きたので、ウィッグをかぶって全く違う髪色と髪型になって遊んでみたところほとんど別人のようになってしまって自分でも驚いた。
大学に入りたてのころを除いてほとんどずっと地毛もしくは地毛とほとんど区別のつかないような暗い茶髪で過ごしてきたが、似合わないと思っていた明るい髪色が実は黒髪よりずっと似合っていた。

「手入れが大変だから」「維持費がかかりすぎるから」となにかと言い訳をしつづけて髪を明るくしなかったことをすこしだけ後悔した。

 


5月13日 水曜日

朝起きてすぐオンラインで人と話して、昼寝してオンラインで人と話したらもう夕方になっていた。

2度目のオンラインでの会話は芥川の晩年の傑作と名高い短篇を題材にしていたので珍しくじっくりと芥川を読んだ。

目の前に広がっていたであろう情景を切り取ってコラージュのようにひたすら並べる様子はすこしわたしが目指している詩の姿に似ていると思っていたが、「この作品は精神病患者の思考のモデルケースとして医学部の授業で取り上げられることもある」と言われて思わず苦笑いしてしまった。

精神科医の詩論や吉増剛造さんの話を聞いてどうやら優れた詩とは異常と正常のあわいを切り取るものであるようだという認識はうっすらしていたものの、自分の目指す視座が社会にとって適切でなかろうものであると実感したのはこれが初めてだったので、わたしはもっと覚悟をすべきだ。

 

 

5月14日 木曜日

目にかかるほど伸びた前髪が鬱陶しくなり、自分で切ることにした。
もう何年も髪を任せている美容師はずいぶんと慎重で、思い切って眉上あたりまで短くしてほしいと頼んでもなんとなくいつもより短いくらいで完成させる。

切っている最中にもちろん長さの確認は都度取られており、鏡で見ていると彼が作る前髪の塩梅がちょうど良い気がするので「そのくらいで大丈夫です」と言ってしまうのだけど、毎度なんとなく丸めこまれたような気がしながらきれいに仕上がった髪の、ベルガモットのシャンプーの香りを嗅いで店を後にしている。
彼に仕立ててもらった比率はそのままに長さだけを短くするために、髪を下ろした様子を写真におさめそれを見本に先の尖った小さな鋏でごく少量の毛束を切る作業を繰り返した。

できあがりは想定よりずっとまともで、明日からもカメラに映れると安堵した。

 

 

5月15日 金曜日

すこしずつ生活の風向きが変わってきた。

 

ずっと、社会から切り離されている気がしていたけれど、家にいるままで社会とつながるすべを理解しつつある。

 

湯船に浸かりながら、はたしてわたしは社会人になれるのだろうかと考え込んでしまった。

社会人というのは社会の運営に多少なりとも貢献しているひとで、それは納税や勤労といった法で定められた義務を果たすことでもあるけれど、もっと本質的にはいまの社会に納得してその維持に努めるひとだと、いまのわたしは考えている。

就職活動はシステムに組み込まれるための儀式だ。

わたしはこの国のいまの社会が納得できないし恨みさえしていて、就職活動には最後まで馴染めなかった。社会を支えるひとは必要だが、歯車が静かに回るばかりでは静かに錆びていくばかりだとも思う。枠に組み込まれなかったひとができることもあるのではないだろうか。

 

5月16日 土曜日

朝8時前に起きて昼寝もせず活動していたはずなのに何をしていたかすこしも覚えていない。おそらく勉強をしていたらほとんど1日が終わっていたのだろう。

活動時間が長かった日は、目を覚ました直後の自分と眠りにつく前の自分が本当に同一の人物であるのか不安に思うことがある。

特に大きな変化もないはずであるのに、どこかで連続性がふつりと途切れている。その切れ目がどこにあるのか確かめようと記憶を辿ると、細かい時系列が特定できない時間のトンネルに行きあたり、それより前に遡ると途端に遠い日のわたしになってしまう。

そのくせ夜明けに見た悪夢はひどく鮮明に覚えていて、跳ね起きたときの心臓の強い鼓動と息苦しさはいまもまだ身体のすぐそばに潜んでいる気さえする。

朝はやく起きて日付が変わるころには眠るようになっても、わたしはやはりどうしようもなく夜の生き物だ。